わたしの町の歴史探訪~富崎地区(布良・相浜)
私は、館山市立博物館の新・地区展「富崎~海と生きる人々」の展示解説会(10月28日)に続いて、11月5日に同博物館のイラストマップを片手に学芸員の解説を聞きながら巡る「わたしの町の歴史探訪~富崎地区(布良・相浜)」に参加した。
富崎は妻の家族のルーツであり、その寺社や史跡めぐりは興味深いものであった。
「富崎」という地名は、天富命が上陸した岬であるという安房開拓神話に基づいて、明治22年(1889)に相浜村と布良村が合併した際に付けられた村名です。太平洋に面した山際にある両村は耕地が少なく、海の恵みを生活の糧としてきました。相浜は西岬地区伊戸までの平砂浦沿岸を、布良は布良瀬という魚の豊富な磯場を漁場とし、江戸時代以降、漁業を生業とする多くの人々が暮らしてきました。
行程
(布良エリア)・・・安房自然村→布良崎神社→道路元標→小谷家住宅→向の墓地(女神堂)→青木繁記念碑→幕末砲台跡→駒ヶ崎神社→富士見の地蔵→(相浜エリア)・・・鮪延縄船・安房節発祥の地碑→蓮壽院→相浜神社(旧感満寺)→松崎弁天(厳島神社)→楫取神社跡→旧富崎小学校→)(布良エリア)・・・神田町の墓地→龍樹院→本郷の墓地(観音堂)→安房自然村
それでは、行程を学芸員の解説とイラストマップや地区展のパンフレットの解説文を読み返しながら、振り返ってみよう。
布良エリア
布良崎神社
祭神は天富命。先ず、学芸員より岩座(いわくら)を案内される。
岩座 : 神様の鎮座する岩
この岩座は西暦800年頃に祀られました。古代の民族風習においては、自然物に神が鎮座するとして岩や山に祈りをささげてきました。
多くの神社の原点は祀られているのが岩座であり社殿や鳥居は後から作られたものです。
(案内板より)
布良崎神社
7月20日前後に社殿から望むと二の鳥居~一の鳥居の中に夕陽と富士山が見られると言う。
富崎村道路元標(げんぴょう)
富崎村と他町村の距離を測る際の基準となった道路元標(石柱)から、かつての布良のメイン通りを望む。
かつての布良のメイン通り : 道路元標より望む
小谷家(こたにけ)住宅
小谷家住宅
明治中期の上層漁家で、明治37(1904)年に洋画家の青木繁が2ヶ月逗留した建物で重要文化財「海の幸」を構想したことで知られている。
青木繁「海の幸」記念碑・阿由戸(あゆど)の浜
阿由戸の浜へ下る途中で青木繁「海の幸」記念碑に出くわす。阿由戸の浜は風光明媚なところで、「海の幸」は阿由戸の浜の情景で、四国から渡海した天富命の上陸場所と伝えられている。
青木繁「海の幸」記念碑
阿由戸の浜 南端(?)
男神山・女神山を眺めながら進む途中、幕末の東京湾警備のための砲台跡の話を聞く。
男神山(左)と女神山(右) : 阿由戸の浜北端(?)上
駒ヶ崎神社
駒ヶ崎神社 : 社殿の裏で海食洞穴を見る
駒ヶ崎神社前の海 : 右上は平砂浦
駒ヶ崎神社は漁師の強い信仰があり、新造船は神社前の海で安全豊漁の祈願を行うと言う。
相浜(あいのはま)エリア
鮪延縄船(まぐろはえなわせん)・安房節発祥の地碑
江戸中期に富崎で鮪延縄漁がはじまり、明治時代にはヤンノーと呼ばれる大型の改良鮪延縄船を建造し、沖泊まりで操業して豊漁を続けたが、事故も多発し後家船と呼ばれた。
安房節は寒い時期の漁の士気を高めるために歌った労働歌。
鮪延縄船・安房節発祥の地碑
蓮壽院(れんじゅいん)・相浜神社
浄土宗の蓮壽院で、元禄地震の大津波の犠牲者86名を供養する正徳5年の名号塔(みょうごうとう)が案内される。
蓮壽院名号塔
相浜神社
相浜神社は感満寺(修験の寺)→浪除(なみよけ)神社→相浜神社(かつての鎮守楫取(かんどり)神社を合祀)の歴史を持つと言う。
数年前、私の住む館山市沼の神輿の修復記念祭で、相浜の青年達が駆け付けて浪除丸の旗の下、お囃子と踊りを披露してくれたが、ここにきて相浜神社の御船浪除丸のいわれが分かった。
旧富崎小学校
今年(平成29年)の3月で廃校となった。校舎入口前に富崎村の近代化に貢献した初代村長神田吉右衛門の碑と二宮金次郎像が立つ。
神田吉右衛門は、有力者の独占状態にあったアワビ漁収益を村の共有資産として、インフラ整備を行ったと言う。
布良エリア
神田町の墓地
殉職警察官4名の慰霊碑が並び、毎年供養祭が行われると言う。その一つ、日本が幕末に開港して以来、港から広まる新たな流行病となったコレラに、明治12年布良で防疫活動中に感染殉職した左右田(そうだ)豊巡査の碑が紹介された。
龍樹院
曹洞宗の寺院で、向拝の龍は後藤義光の兄弟子にあたる後藤恒徳の作と言う。
龍樹院向拝の龍
本郷の墓地
由緒あるものが点在する中、俵光石制作による酒樽型の墓石が面白い。
さて、妻の家族のルーツの話だが、妻は住居はどこ?との問いに布良と言うだけ。そこで、義兄にイラストマップを見せて聞いたところ、即本郷の墓地の下を指差して教えてくれた。
その後転勤により住まいを変えていったようだが、生まれたのはどこ?との問いに妻は分からないと言う。
そこで、才色兼備の義姉のケイコさんに聞いたところ、即布良の本郷との答えが返ってきた。
かくして、私は歴史探訪のお陰で、妻の生い立ちを知ることが出来たのであった。
おわりに
富崎の歴史探訪は、13時00分から16時15分、8,800歩で終わりとなったが、私は相浜に入ってから疲れが出て寄る年波を痛感する羽目になった。
昭和初期には、海と共に生活する模範村として評判になったというが、海にせり出した崖の上と下に展開する富崎地区の現状は、空き家の目立つ集落との感がぬぐえない。