昭和三十一年の夏。空を鋭く切り裂くようにそびえ立つ「大鉄塔」の麓(ふもと)は、夕暮れ時になると人々の熱気で白く霞んでいた。

 

「出た! 力道山の必殺、空手チョップだ!」
 

駅前の電気屋が店先に掲げた、十四インチの「魔法の箱」に向かって、地鳴りのような歓声が上がる。人混みの隙間から食い入るように青白い画面を見つめるのは、十歳の進だ。隣では、町工場の職人である父・浩二が、額に油汚れを滲ませながら拳を握りしめている。

 

画面の中、漆黒のタイツを穿いた力道山が、巨漢の外国人レスラーの胸元へ肉厚の手刀を叩き込む。割れたスピーカーから衝撃音が響くたび、人々の中にあった心の傷が吹き飛んでいく。それは、泥の中から立ち上がるこの街のエネルギーそのものだった。

 

翌日、川沿いの「ひょうたん空き地」。進は右手を高く掲げ、泥だらけの腕を振り下ろした。
 

「くらえ、力道山チョップ!」

 

「相変わらず型がなってないね。本物はもっと腰を落として、地響きがするほど踏み込んでるよ」
 

遮ったのは、糊のきいた白シャツを着た健一だ。この界隈で唯一、自宅の居間にあの青い光が灯るテレビを持つ、進のライバルだった。
「進はいつも駅前で大人の背中に隠れて観てるから、本当の凄さが分かってないんだ」
 

健一は勝ち誇ったように鼻を鳴らす。特等席で観る世界と、人混みでもみくちゃになりながら盗み見る世界。その歴然とした格差に、進は悔しさで顔を真っ赤にした。

しかし、その日の夕方、トタン屋根の進の家に「奇跡」が届く。
 

狭い土間に運び込まれたのは、父が幾晩も工場で夜なべを重ね、月賦(ローン)で手に入れた最新型の「噴流式電気洗濯機」だった。

 

「これが……本当に衣類を洗ってくれるのかい?」
 

母のキヨが、すり減った木製の洗濯板を抱きしめたまま、呆然と立ち尽くしている。
 

「ああ。これからは『三つの宝物』の時代だ。もう冷たい水で手を真っ赤に腫らすこともねえ」
 

浩二は照れくさそうに、手ぬぐいで汗を拭った。

スイッチを入れると、白い泡がうなりを上げて渦巻いた。毎日、家族五人分の頑固な泥汚れをゴシゴシと手洗いしていた母の目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちる。

 

それは長年の重労働からの解放であり、我が家に本当の「新しい時代」が告げられた瞬間だった。

 

翌日、空き地で健一と対峙した進は、胸を思い切り張った。
 

「健一、テレビなんて駅前に行けば誰だって観られるやい! でもな、うちには昨日、本物の『電気洗濯機』が来たんだぞ! お前んちの母ちゃん、まだ冷たい水でゴシゴシ手洗いして、手を荒らしてんだろ!」

 

健一は一瞬、言葉を失った。裕福な家とはいえ、まだ家庭用洗濯機は導入されていない。毎日、お手伝いさんが汗だくでタライを叩いているのを知っていたからだ。
 

「……洗濯機なんて、ただ水が回るだけじゃないか!」健一が悔しそうに言い返す。
 

「ただ回るだけじゃないやい! 母ちゃんの涙を止めてくれる、魔法の箱なんだ!」

 

二人は激しく睨み合った。しかし、その瞳の奥には、自分たちの家が、そしてこの街が、ものすごい勢いで新しくなっていくことへの、言い知れぬ興奮が弾けていた。

その夜、ふたたび街頭の青い光の前。
 

力道山が放つ猛烈なチョップの応酬に、夜空が揺れるほどの歓声が上がった。
進は父のゴツゴツした大きな手を強く握りしめ、叫ぶように言った。
 

「父ちゃん、俺、いっぱい手伝いする! だからいつか、うちの畳の上にも力道山を呼ぼう!」
 

浩二は息子の頭をくしゃくしゃに撫で回し、白い歯を見せて笑った。
 

「おうよ。次はテレビと、電気冷蔵庫だ。健一の家なんか、あっという間に追い抜いてやるさ」

 

頭上高くでは、建設中の大鉄塔の骨組みが、未来の灯火のように夜霧の向こうで力強くそびえ立っていた。