DIAMOND online より
近年新しく「うつ」と呼ばれるようになった病態の中には、リストカッティング(手首自傷)などの自傷行為や、過食・嘔吐などの摂食障害を伴うタイプも存在します。
そのような病態では、パーソナリティの基盤となる「自己愛」の部分に問題を抱えていることが多く、通常行われているような休養や薬物療法中心のアプローチでは解決が困難で、適切な治療に出会えずに経過が長引いてしまっているケースも珍しくありません。
今回は、こういった自傷行為や過食といった現象がなぜ起こるのか、また、そこから読み取るべきメッセージは何かといったことについて、考えてみたいと思います。
《自己破壊ではなくリセットが目的だった》
自傷行為や過食は、その行為自体が奇異で自己破壊的に見えるために、周囲からはネガティブなものと捉えられ、専門家による治療の場面でさえも「今後は決してしないと約束して下さい」と言われてしまうことがあるようです。
確かに、このような症状を消失させることは治療の重要な目的の1つではありますが、それを急ぐ前に、なぜこのような症状が起こっているかを理解しておく必要があります。つまり、症状の意味を汲み取っておくということです。
このような症状を抱えている人たちは、根本のところに「自分自身のことを認められない」「自分を愛せない」といった「自己愛」の問題を抱えており、それゆえ、生きること自体が苦痛に満ちた状態になってしまっています。
自傷や過食にいたる心境を詳細に聴いてみると、「もうやらないようにしよう」といくら意識で止めても、それをしのぐ強い衝動が突き上げてきて、自分が別モードに入ったような解離状態の中で行為に及んでいることがわかります。そしてそれは、自分の中に溜まった歪みをリセットするかのような、一種の自己治療の意味合いを持っているのだということもわかってきます。
《「頭」の圧政から解放されたい衝動》
「自分自身のことを認められない」状態とは、「頭(理性)」が「あるべき自分」を勝手に設定し、その基準や条件を満たしていない「実際の自分」を嫌悪してしまっていることです。
そのために、普段は「あるべき自分」に近づけるべく「頭」が自分自身を強力にコントロールしていることが多く、コントロールされる側の「心」(=「身体」)はかなりの無理を強いられています。そして、その無理がある程度以上に蓄積されてくると、自傷や過食の衝動が突き上げてくるようになるのです。
つまり、「心」(=「身体」)側が、「頭」によって強いられ生じた歪みをリセットしようとするのが、自傷行為や過食なのです。
地殻プレートの歪みがリリース(解放)される時に地震が起こるようなイメージで、これを捉えることもできますし、「頭」の独裁的な圧政にたまりかねた国民(「心」=「身体」)の暴動として捉えることも可能でしょう。
《自傷行為による自己確認》
自傷行為や過食によって、「自分が自分でなくなっている」といった離人状態が少し改善する、という話を患者さんからよく耳にします。
「頭」が強力に自己コントロールをかけている状態においては、「頭」と「心」の間のフタが閉じられているために、「頭」と「心」(=「身体」)は断絶してしまって感情や感覚も感じられにくくなるので、離人状態に陥ってしまいます。これが、自傷による痛みや出血、過食後の嘔吐などによって「身体」の存在が呼び覚まされて、離人状態が軽減するのでしょう。
一方、「頭」からすれば、そもそも自分自身を否定的に見たり嫌悪したりしているので、ともすると、要求通りに動かなかった自分に懲罰を加えたくなったり、嫌悪する自分を否定したくなったりします。そのため、「心」(=「身体」)とは別の動機ではあるものの、自傷行為に同調してしまうのです。いわば、呉越同舟の関係です。
また、「自分を愛せない」ことの代償として「誰かから愛されたい」と他者依存的な状態に陥っている人の場合は、自傷行為は「こんなに私は苦しんでいるんだ」ということを周囲にアピールする効果があるため、症状を手放しにくいという側面もあります。
このように、本人の中のさまざまな思惑が複合的に合致するうえに、刹那的な満足も得られやすいために、たとえ「止めたい」という本人の意志があって「もうしない」と治療者と約束をしたとしても、それでも歯止めが利かないような強い衝動が生まれてしまうのです。
《コントロールに対する反逆現象をどう扱うべきか》
このように複合的な要因が生み出している状態へのアプローチは、「頭」の意志力に働きかける方法では、どうにもならないことは明らかです。
つまり先ほども述べたように、「頭」によって行なわれる「あるべき自分」を目指した強力なコントロールによって生じている現象なのですから、「もうしないと約束させる」ようなやり方では、「自傷(や過食)をしてはならない」という新たな「あるべき」ミッションを付け加えてしまうことになってしまい、うまくいかないのです。
もちろん、かといってこのような行為を奨励するわけにもいきません。それでは、いったいどうしたらよいのでしょうか。
これらの症状は、見かけが派手であるため、これを解消することを優先的目標に考えてしまいがちですが、それは功を奏しにくい。ここはやはり、幹に存在する「自己愛」の問題やオーバーコントロールの問題にまっすぐにアプローチすることが、一見遠回りに見えても最も有効なアプローチなのです。幹の問題が変わらない限り、枝葉である症状に対して躍起になっても、症状が別のものにシフトしてしまうだけで、真の解決にはいたらないものです。
《「あるべき自分」という幻想》
このような症状に苦しむ方たちに限らず、私たちの多くも、「あるべき自分」の幻想に大なり小なり囚われていると思われます。
知らず知らずのうちに、「実際の自分」は怠惰で邪悪なものであって、「あるべき自分」に向けて自分自身を律し鍛え上げていくべきである、という人間観を根本のところにすり込まれてしまっていることが多いのです。
18世紀フランスの思想家ルソーは、今や教育論の古典とされている『エミール』という主著の冒頭で、次のようなことを述べています。
創造主の手から出るとき事物はなんでもよくできているのであるが、人間の手にわたるとなんでもだめになってしまう。…中略…人間はなにひとつ自然のつくったままにしておこうとしない。人間自身をさえそうなのだ。人間も乗馬のように別の人間の役に立つように仕込まずにはおかないのだ。庭木と同じように、人間の好みに合わせて、かならず曲げてしまうのだ。(永杉喜輔・宮本文好・押村襄訳、玉川大学出版部)
人間本来の姿を、このルソーのように「よくできている」と捉えるか、それとも、私たちがすり込まれてきたように「怠惰で邪悪なもの」と捉えるか。この違いは、私たちが「心」(=「身体」)を信じ尊重して生きるのか、それとも「頭」優位で絶えず自己コントロールの緊張の中に生きるのかを大きく分けるものになるのです。
以前は稀にしか見られなかった自傷行為や過食の問題が近年急増してきたことは、自然な人間の在り方を認められずに「あるべき姿」に向けて捻じ曲げようとしている現代人への警告であると、私には思われてなりません。







