【死んだらどうなるのか?】

 

「死んだらどうなるか」という問いは、宗教によっても考え方に差があります。キリスト教、イスラム教、日本神道、唯物論、仏教の考え方を探っていきたいと思います。

キリスト教では、私たちひとりひとりが生まれたのは神の意志によるものと考えられています。すべての人は神の意志によって作られたものであることは聖書に書かれています。キリスト教の世界観では、生まれた私たちが生きてやがて死にます。その後、土葬で埋められて、しばらくして神から「最後の審判」を受けます。そこで判断されるポイントは「神に背いたかどうか?」という基準に寄ります。生前神を信じていた人は、神の国とか、千年王国とか、永遠の国と呼ばれる場所で、神と一緒に楽しく暮らすことができるとされています。一方、神に背いたという裁きを受けた場合には、永遠の炎で焼かれるとされています。

イスラム教では、ヤハベとかエホバとか、アラーと呼ばれる神とは別に、預言者であるムハンマド(マホメット)が残した「コーラン」という本には、神を信じる人はこうあるべきだという細かな規定が書かれています。「豚肉を食べてはいけない」とか「断食をしなければならない」などの細かなルールが書かれています。これらのルールを守る人が神を信じる人であり、そうでない人は神を信じない人として、キリスト教と同じように、死後に裁かれることになっています。そしてイスラム教では、緑園という幸せの国にいくことになります。イスラム教徒が土葬にこだわるのは、この弔い方でなければならないと「コーラン」に記載されているからです。審判を受ける前に焼かれてしまっては、誰が誰だかわからなくなってしまうからだそうです。

日本神道では、死後も私たちの魂は残るとされていて、岩や木などの自然物に魂は宿るものとされています。霊魂は、生きる者よりもはるかに強い力を持っていて、霊魂が生きている者に不幸や災難を与えたり、あるいは、恵みや幸せを与えたりすることができると考えられています。そういう力を霊魂は持っており、特に英霊はその力がとても強いとされています。非業の死を遂げた平安時代の菅原道真や国のために戦争で戦って命を落とした軍人たちは、優れた英霊であるとされています。特に亡くなった人が子や孫などの子孫に対して、たたりや恵みをもたらすことがあるとされ、先祖崇拝の考え方を色濃く残していることがわかります。

唯物論では、こうしたおとぎ話のような宗教感を否定しています。私という意識は脳が司っていて、自分という存在は生まれてから死ぬまでの間だけ存在しているという考え方です。合理性を求める唯物論では、脳の信号が途絶えると同時に自分もなくなり、死後の世界など存在しないという考え方です。生まれる前も何もなかったし、死んだ後も何もない中で、突然、私という存在が生じ、しばらく存在した後に、ポンとなくなって、その後は永遠に無であると考えます。すべては偶然の産物であり、そこには意味も意義も存在しない。とにかく死んだらすべて無になる。すべては偶然である。これが唯物論の考え方です。ただ、無から有が偶然に生じたというわけですから、同じことがもう一度偶然に生じる可能性も否定できないということになります。

仏教では、生死生死を繰り返す「輪廻転生」と教えられます。水が「雨⇒川⇒海⇒雲」のようにカタチを変化させながら、存在し続けると伝えています。物事には必ず原因があって結果が生じますが、そこには「縁」という周りの環境が影響を与えます。自分自身の業(カルマ)によって次の世界が生まれだされるものですから、自分自身のやったこと、行動のすべてがその後の在り方を決定していると説かれています。

このように死んだらどうなるかという考え方はさまざまですが、実際のところはどうなのか私たちにもわかりません。人間は100%死んでいくものです。みなさまおひとりおひとりが考えてお決めください。

参考引用:仏教に学ぶ幸福論 by 菊谷隆太
https://www.youtube.com/watch?v=Nr8pmq5_UgU

 

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