【A級戦犯海洋散骨の意味】

 

第2次世界大戦後の極東軍事裁判。いわゆる東京裁判では、太平洋戦争開戦時の首相であった東条英機元首相(1884年12月30日~1948年12月23日)ら7人のA級戦犯が死刑判決を受けましたが、遺骨は遺族に返還されず、どのように処理されたのか、長い間詳細は分かっていませんでした。日本大学の高沢弘明専任講師がアメリカの国立公文書館で入手した公文書は、死刑執行に立ち会った将校が記したもので、「遺体の火葬後、遺骨を横浜の東およそ30マイル(48㎞)の太平洋上空から広範囲に散骨した」などと具体的な経緯が書かれています。マッカーサーの命令を伝える書簡に書かれていたのは、「処刑した戦犯の遺体は、いかなる場合にも日本の管理下に戻されることはない。遺骨は海上で秘密裏に処分されるものとする」とありました。アメリカ側のこの強い意志には、「遺骨が後々神聖化されないように徹底的に抹消しよう」という意図があったのではないかと見られています。

絞首刑が実行されたのは、1948年12月23日午前0時過ぎでしたが、この日は当時皇太子であった明仁さま(第125代天皇・現上皇)の誕生日でした。ここにも日本に対して精神的な打撃を与えたいとするアメリカ側の意向が伺えます。死刑の執行は巣鴨プリズンで行われたが、遺体はその後、午前2時過ぎにトラックで横浜に向かいました。横浜には、遺体を扱う米軍の駐屯地があり、そこに運び込まれて一時保管されたそうです。その場所は、当時の横浜第3高等学校。現在の緑が丘高等学校(横浜市中区本牧)の場所です。翌日の7時過ぎに、久保山火葬場(横浜市西区元久保町)に運搬し、厳重な警備の中で火葬されました。わずかな骨の破片も見落とさないよう特に注意が払われたそうです。火葬された遺骨は、伊勢崎町にあった小型滑走路から飛行機で飛び立ったそうです。散骨地点は、横浜の東48キロとされていますが、その地点は房総半島にあたるため、房総半島の沿岸から東に48キロの地点ではなかったかとも推測されています。公文書としてこの事実が明らかになったのは、終戦から76年が経過した2021年のことです。

散骨は、東京裁判のほかにも、ナチスドイツの責任を裁いたニュルンベルク裁判のときにも、散骨が行われました。ナチスドイツのヘルマン・ゲーリング国家元首は、生前「我々は大理石の殿堂に祀られるだろう」と発言していました。当時の占領軍たちは「そんなこと絶対に許さない」という意気込みをもってミュンヘンの小さな小川に遺骨を撒いたことが知られています。キリスト教徒たちは、古代にも魔女狩りと称して「火あぶりの刑」を行ってきた事実があり、「火葬して散骨する」という行為は、徹底的に憎むべき相手を抹消しようという深層心理が見えてきます。

日本では昔から火葬文化がありました。『続日本紀』によると、700年に僧・道昭が火葬されていることがわかります。これが日本初の火葬とみなされています。 702年には持統天皇が火葬されて埋葬されたこともわかっています。この頃は飛鳥時代にあたり、仏教が日本列島に伝来した時期に当たります。火葬が日本にもたらされたのは、仏教の影響によるものと考えられています。火葬文化を背景に持つ民族が、罪人を処刑した場合、遺体を火葬することは、その罪人を尊重して礼儀を尽くしたという意味になります。しかし、逆に、米国のように土葬文化を持つ民族が罪人を処刑する場合は、二度とこの世に生まれてこないように徹底的に抹消するという強い意味になります。キリスト教では、中世にも魔女狩りが行われました。その際にも罪人を「火あぶりの刑」に処しました。

最後に、東条英機らの執行当日に話を戻しますが、東條は土肥原、武藤章(1892〜1948)、松井石根(1878〜1948)と共に連行された。最後の望みとして希望したのは日本酒であったが、そこに出てきたのはブドウ酒。それを一口飲み、ご機嫌に笑っていたと言われています。それを見ていた米国側は日本人の精神力に度肝を抜いたとも言われています。4人は万歳三唱をして、監視の将校たちに「ご苦労さん、ありがとう」と言葉までかけたそうです。そして彼らは、にこにこ微笑みながら刑場に消えていった。執行の直前まで「南無阿弥陀仏」の念仏が絶えなかったとのことです。あっぱれ日本人。アメリカが日本を恐れるのは強かった日本人の精神力なのでしょう。

 

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