【飛鳥時代の弔い方】

 

推古天皇が即位した593年から、平城京へ遷都した710年までの時代を「飛鳥時代」と呼びます。 仏教伝来に伴って、様々な文化や政策や考え方が日本に伝わったことで、日本が大きく変わった時代です。日本という国が天皇を中心とする律令国家を目指し、政策を推し進めたのも飛鳥時代でした。古墳時代の末期と飛鳥時代初期は年代がかぶっていて、飛鳥時代でも古墳は作られているものの、葬儀文化において大きな変化が起こっています。

推古天皇の摂政として、十七条憲法や冠位十二階の制定、遣隋使の派遣などの進んだ政治制度や文化を取り入れ、政治改革を図った聖徳太子は、日本書紀によると推古29年(621)に亡くなり、磯長の地に葬られました。聖徳太子は、自身が亡くなる前の618年に自分の墓を建てたという記録があります。墓には強いこだわりを持っていたことが伺えます。聖徳太子墓は径50メートル、高さ10メートルほどの円墳で、内部は精巧な切石を用いた横穴式石室になっています。

しかし、その後、646年に出された「薄葬令」によって、古墳の大きさや築造にかける期間、人員などが細かく制定されるようになり、古墳時代のような大型古墳は作られなくなりました。

701年に制定された大宝律令によると、身分の高い者だけが墳墓を作ることが認められ、一般庶民は決められた場所に葬られ、自由に埋葬することができなくなりました。

700年に道昭という僧侶が火葬にされたという記録が残っています。これが日本における最初の「火葬」だと言われています。その後、702年には持統天皇も火葬にされました。「火葬」は特権階級に対して行われた高貴な弔い方であったようです。

 

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