【古墳時代の弔い方】

 

古墳時代には、弥生時代よりもさらに古墳が巨大化します。権力者のパワーが炸裂した時代です。古墳時代は、日本で盛んに古墳が造られた3世紀から7世紀ごろまでのおよそ350年間をさします。弥生時代と飛鳥時代の間に当たり、日本の古代国家の原型がこの時代にできあがったと考えられています。古墳には前方後方墳、円墳、方墳、帆立貝式古墳などさまざまな形があり、日本には約16万もの古墳があるとも言われています。特に巨大な前方後円墳は、現在の奈良県や大阪府に集中しています。このことから、この時代には関西エリアの権力者のパワーが増大していたことが分かります。前方後円墳として最もよく知られているのは、大阪堺市にある「大仙陵古墳」でしょう。実際の被葬者は明らかではありませんが、宮内庁により百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)として仁徳天皇の陵墓だということになっています。

大型古墳の多くは権力者一人を埋葬するためだけに作られ、たくさんの副葬品と一緒に棺が埋葬されています。それらは家族墓ではありません。支配階級の埋葬方法が変化した一方で、庶民の埋葬に関しては、弥生時代と変わらなかったと考えられてれています。

古墳時代には、朝鮮半島から渡ってきた渡来人のもたらした技術や文化が、人々の生活を徐々に変化させていきます。鉄器の登場は田畑を耕作したり、水路を造成するだけでなく、武器や鎧として、集落を制圧支配していくための武具として機能しました。弥生時代に生まれていた小さなムラは、その後クニによってまとめられていきます。そして、各地のクニは西日本を中心として大きなまとまりになっていきます。畿内最大の勢力はヤマト政権でした。ヤマト政権は地方の諸豪族を支配して基盤を固めていきます。この基盤が、その後、天皇を中心とした国家の仕組みへとつながっていきます。

当時の朝鮮半島には、百済、伽倻、新羅、高句麗がありました。これらの国々は日本のことを「倭」と呼んでいましたが、古墳から出土する品々からは倭国がこれらの国々と活発に交流していたことがわかります。9世紀始めの日本の主流氏族の約26%が韓国系だったとする研究結果もあり、朝鮮半島とのかかわりが天皇制国家支配に力を添えたと言えます。2001年、天皇は、「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されている」と述べ、皇室と朝鮮半島との血縁関係を明らかにした。発言は韓国で大きく扱われた。

2001年12月23日、明仁上皇陛下(当時天皇陛下)68歳の誕生日の際は、「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、『続日本紀』に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」と述べ、皇室と朝鮮半島との血縁関係を明らかにしたこの発言は韓国で大きく扱われました。

 

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