・最初に火葬された天皇は持統天皇

 

持統天皇(645-702、享年58歳)は最初に火葬された天皇です。皇室史上3人目の女性天皇です。父は大化の改新を実行した中大兄皇子。律令を制定し、戸籍を整備し、本格的な都を造営するなど、我が国の政治の礎を築かれた天皇です。「藤原京」へ遷都をし、701年の大宝律令は、我が国初の本格的な法典でした。遺詔には、「素服、哀を挙げることなく、文武官の釐務(りむ)は常の如くにし、喪葬の事は専ら倹約に従わしむ」とあります。天皇の喪葬で、倹約の遺詔を出したのはこれが日本で最初のことです。民衆の窮状を救うために、自らの葬儀を簡略にすることを願ったのです。飛鳥岡に天皇として初めて火葬され、銀壷に御骨を入れて、天武天皇の檜隈大内陵に合葬されました。天武・持統天皇陵は、夫婦で合葬されている御陵です。墳丘は現在東西58m、南北45m、高さ約9mの円墳状をしています。古代の墓所は、やがて森となることを前提に建設されていて、時とともに植物が根付き、木が育ち、小さな森のようになっていきました。

平安時代には、例え天皇や上流貴族であっても、墓参りの習慣はなく、故人を供養する仏事は全て菩提寺や遺族の邸宅で行われました。そういったこともあり、そうした貴人の墓は、基本的に遺体・遺骨が埋葬されてからは、荒廃するに任せていたのです。

王朝時代の偉大な歌人であり、また小倉百人一首の選者でもある藤原定家が残した日記『明月記』の中には、天武・持統天皇陵から遺骨が盗まれたことが記載されています。その記録によると、1235年に盗掘があり、副葬品と持統天皇の遺骨が納められた銀の骨壺が持ち去られた事件が発生していました。その2〜3ヶ月後に、盗掘の犯人は捕らえられましたが、銀の骨壺「本体」がそもそもの狙いであったため、犯人は遺骨を道端に遺棄してしまったといいます。

記録者の藤原定家も、遺骨が捜索されないこと自体に対しては、全く気に掛けていなかったようで、天皇の遺骨が道端に遺棄されたことを当局が知っても、その遺骨が捜索されなかった事実は今考えると驚くべきことではないでしょうか。日本で初めて火葬された天皇の遺骨は道端に捨てられ、今もなお捨てられたままです。特に政治経済や文化の中心地であった近畿地方では、「故人の遺体や遺骨へのこだわり」が、極めて希薄であったことを意味しており、遺骨に対する考え方は、時代によって大きく異なることを改めて思い知らされます。

 

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