・宗教の信仰と先祖供養は別のもの

 

無宗教が多いとされている日本ですが『日本宗教観』で調査結果、先祖を敬う気持ちが94%と多くの人が祖先を大切にしていることがわかります。先祖がいなければ、今の自分たちが存在しないのは私たち誰しもが気づいていることです。死んだ先祖が、生きている子孫たちに影響を与えていることは紛れもない事実です。このような先祖崇拝は、世界中に多く存在しています。

世界中の先祖崇拝というのは、アフリカ・マダガスカル・東アジアなどに広く存在していますが、キリスト教やイスラム教がしっかりと根付いた地域では、先祖崇拝はほとんど行われていません。古代ローマ時代までさかのぼれば、先祖崇拝を行っている人たちがいたようですが、現在のようにキリスト教が定着してからは行われていません。

アフリカでも、全ての先祖を崇拝しているわけではありません。崇拝される先祖は一部の人だけであって、尊敬に値するほど立派な生き方をした先祖だけが崇拝されています。生前の行いが良くなかった先祖は、たとえ先祖であっても崇拝するのは不適切であると考えられています。幸福な人生をおくるためには神聖な先祖を敬うことが必要だと考えられていて、人類皆兄弟という広い視野に立てば、これが徐々に一神教に変化していくことになるわけです。

中国では、儒教思想が広がる前から祖先崇拝の文化はありました。しかしこれも、先に死去した親族が必ずしも崇拝されるものではありませんでした。そして、先祖に対して適切な供儀を欠かさなければ一族を栄えさせるが、供儀を怠ると子孫に悪影響を及ぼすと考えられていました。韓国は先祖崇拝が強い国ですが、これは儒教の影響が大きいようです。年長者が重視され、祭祀は長男が行うもので、対象になるのは、自分の直接の祖先のみです。

日本の場合も、祖先の霊を祀り崇拝します。日本では、仏教が入ってくる以前から先祖崇拝があったとされています。縄文時代、弥生時代から自然発生的に生まれた信仰だと考えられていて、この考えは後の神道、神社の神様の教えの元となっているとされています。

日本に仏教が伝来したのは6世紀頃です。その後、日本列島固有の神に対する信仰と融合したことで、神社の本殿に仏像を祀ったり、仏教寺院の境内に神殿を構えたりといった状況になりました。多くの場合、死者が出ると、初七日・四十九日と法要を行って供養し、さらに1年後に一周忌、2年後に三回忌、6年後に七回忌、と法要を行う。その後、三十三回忌(あるいは五十回忌)を迎えると、「弔い上げ」といって、このような法要を打ち切ることになります。「弔い上げ」は、生木の葉がついた塔婆を建てたり、位牌を家から寺に納めたり、川に流したりと、地域によってやり方は異なりますが、この「弔い上げ」を終えると、死者の供養は仏教的要素を離れることになります。それまで死者その人の霊として個性を持っていた霊は、「先祖の霊」という単一の存在に合一され、祖霊になります。祖霊は、清められた先祖の霊として、家の屋敷内や近くの山などに祀られ、その家を守護し、繁栄をもたらす神として敬われるようになると考えられてきました。

かつての日本には、墓が二つあったことをご存じでしょうか?ひとつは遺体を埋葬する墓。もうひとつはお参りするための墓です。遺体を埋葬する墓は、埋め墓(捨て墓)と呼ばれ、人が近づかない山奥や野末に作られました、埋められた遺体や石塔は時が経つにつれ荒れ果て不明になるにが普通でした。この埋め墓(捨て墓)は、そこ自体を死者供養のための墓所としている訳ではないので、永く保存する事を目的としていなかったようです。もうひとつの参り墓(詣で墓)は、自分の家の近くや田畑、寺院内に建てる作ることが多く、永く死者供養をすることを目的とした墓所は、参詣に便利な場所を選んで建てられることが多かったようです。こうしてた「祖の霊を居住地の近くに配置し、供養し、家の安泰を願う」という考え方も、先祖崇拝にあたります。その後、中近世になると、自分の屋敷の中に墓を設ける屋敷墓が誕生し、屋敷の外であっても直接遺体を葬った場所に墓所を建てることが多くなり、墓はひとつに統一されていくようになります。

ひとりひとりが先祖を思う気持ちは、昔も今もそんなに変わっていないのかもしれません。世界中に祖先を大事にする心はあります。先祖崇拝は、縄文時代、弥生時代から行われていると考えられています。先祖が開いた農地に植えた稲作が育ち、先祖への感謝が生まれ、何も災害がなかったことに太陽や雨という自然物への感謝が生まれるようになります。その考えが徐々に広まると、祖先を祀る働きが生まれ自然と「先祖崇拝」が人々の日常の中に生まれたと言われています。先祖を思う気持ちは家族を大切にする気持ちと同じであって、人としてごく当たり前に持つ感情に過ぎません。ただ、歴史を見れば、時代によって、特定の宗教が先祖を崇拝する気持ちを取り込みながら成長していったことがわかります。そもそも信仰というものは、極めて個人的な価値観であるはずです。どうして組織にするのかわかりません。今も、宗教間の派閥争いが原因で戦争が起こっています。大切なことは私たちひとりひとりの心のあり方でしかありません。仏教の各宗派のしきたりや作法に従うことが祖先を大切にすることなのではなく、祖先を思う私たちの気持ちこそが大切なのではないでしょうか。特定の宗教と先祖崇拝とは根本的に異なる概念であることを、現代人の私たちは知っておくべきなのでしょう。

 

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