ここでは、自分の人生のうち創価学会と関連する部分を時系列に沿って少し振り返ってみたいと思います。

 

創価学会の家に生まれ、未来部として育つ

 両親ともに信心強情な学会員でした。私の父親は1世、母親は3世でしたので、私は学会4世ということになります。両親は私が生まれてから約1ヶ月後に入会の手続きをしたそうです。私の本名の下の名前は両親の希望で池田先生がつけたものです。これは親なりの愛情かと思いますが、少しわがままを言うとちゃんと考えてつけて欲しかったなとも思います。

 私の実家には大きな仏間があり、これは学会の会合をここで開くために家を設計する段階で建築士にお願いして作ったものだそうです。ですから、毎週のように実家の仏間で会合が開かれており、地元の学会員さんと交流する機会が非常に多かったように思います。私がたまたま恵まれていたからか、地元の学会員さんは非常に優しくて良い方がほとんどで、私の成長を見守り、喜んでくれました。私の母親は複雑な家庭環境で育ち、子育てを始めた頃は子どもにどう接すればいいか、分からなかったそうですが、そのあたりは地元の学会員さんに教わったそうです。ですから、地元の学会員さんにはとても感謝しています。

 

創価高校を志望、入学する

 地域の婦人部の方に創価高校への進学を勧められ、受験を決めました。創価高校に行きたいと思った理由は、近年創価高校はSGH(スーパーグローバルハイスクール)に登録されており、英語教育やその他、グローバルな視点を持った人材の育成に力を入れていて、そのあたりに心惹かれたからです。もちろん“池田先生が創立された学校に行きたい”という思いもなかったわけではありませんでしたが、それは二の次でした。私は受験に無事合格し、地元から上京、進学しました。そして、上京にあたり地域の信心強情な学会員さんの民家で下宿をすることになりました。

 

学園生活を送る

 入学したばかりの時は、周りの池田先生を求める熱に若干引き気味でしたが、すぐに私もその熱に取り込まれていきました。創価学園では栄光の日(7.17)、情熱の日(10.10)、英知の日(11.18)の記念式典と卒業式(3.16)の前になるとみんなで新・人間革命をはじめとする池田先生の書籍や学園生へのメッセージを研鑽したり、学園の愛唱歌の練習をしたりします。特にこのときの学園生の熱量は凄まじかったです。私自身は式典当日には“池田先生に一生涯お応えできる人材に成長します”というような誓いを立てたのを覚えています。このような池田先生を求めることが美徳とされる環境にいて、自分よりも池田先生を熱心に求めている友達を見て、自分はまだまだだなと謎の劣等感を感じることさえありました。当時の自分の心の中で、池田先生を求めること(つまり個人崇拝)が強迫観念になっており、今振り返ってみると、この状態は病的だったなと思います。

 

 学園生活を通して創価学会や池田先生に対して大きな疑問を抱くことはありませんでしたが、時々小さな疑問が湧いてくることはありました。そのたびに自分を納得させて疑問を払拭するか、無視をするようにしていました。例えば、学園生には池田先生がつけた名前を持つ人が多いのですが、私の身の回りに同じような名前を持つ人が多かったのを覚えています。そのことを受けて、池田先生は適当に名前をつけられているのではないかと考えたりしましたが、先生はお忙しいし、全国にすごい数の未来部がいることを考えると、いちいち丁寧に名前を考えてられないよな、と納得していました。また、人の顔にはその人の性格が表れると言いますが、学園でよく飾ってある池田先生の写真を見ても、その人相は良いと思えませんでした。このことに関しては、人相だけで人を判断するのは間違っているよなと思い、あまり考えないようにしていました。それから、月に1回ある地域の座談会に参加したとき、新聞啓蒙や選挙活動の数字を報告し合っている姿を見て、営業活動みたいだなと思ったり、広宣流布をしなきゃいけないのはなぜだろうと疑問に思ったりしました。創価高校は一応“宗教教育をしない”という体でやっているので(新・人間革命第12巻 栄光の章参照)、池田先生の思想について学ぶことはあっても広宣流布など学会活動についての指導を直接受けることはありませんでした。ですから、このことについてはまあ高校を卒業してから考えればいいやと思っていました。

 

 学園生活を振り返ってみて、色んなことがありましたが、全体としては心優しい友達や学校の先生方に恵まれ、幸せで充実した3年間でした。

 

 

…書いていたら思いのほか長くなってしまいましたので、大学に進学して創価学会への大きな疑念を持つようになってからのお話はまた今度投稿するとします。