僧職系男子のつぶやき -35ページ目

僧職系男子のつぶやき

お坊さんのつぶやきです。

あ、そのまんまか( ´ ω ` )

ちなみに、お寺は東京荒川区にあります。
新三河島駅から信号待ち含めても徒歩三分くらい。
お参りはご自由に( ´ ω ` )

「弥陀の誓願、不思議に助けられまいらせて、往生をば遂ぐるなりと信じて、念仏申さんと思いたつ心の起こるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたもうなり。
弥陀の本願には、老少善悪の人も選ばれず、ただ信心を要とすると知るべし。
その故は、罪悪深重煩悩熾盛の衆生を助けんがための願にてまします。
しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏に勝るべき善なきゆえに。
悪をも恐るべからず、弥陀の本願を妨ぐるほどの悪なきがゆえにと、云々。」

歎異抄の第一章です。現代仮名づかいに変換してますが。

僕が親鸞と出会ったきっかけの一文でもあります。
とはいえ、歎異抄は親鸞の著作ではなく、弟子の唯円の著作です。
親鸞は、浄土真宗の宗祖として崇められていますが、どんな人物だったのでしょうか。
前情報も全くなく、名前すら聞いたことありませんでした。僕は。

でも、親鸞という人物像に迫るほど、親近感みたいなものが湧いてくるのです。

親鸞はある貧乏貴族の家柄に生まれ、九つの時に比叡山にて出家、得度し、一般人から僧になりました。
そして29歳までの20年間、比叡山で厳しい修行を続けますが、一向に覚れる様子もなく、むしろ自分は煩悩にまみれていて清らかではない、覚る覚らないどころの話ではない。そんな悩みを抱えて、六角堂にこもりました。
そして、ついに覚悟を決め、当時名声を馳せていた法然の元を訪ねます。

法然は浄土宗の開祖で、厳しく難しい修行をせずとも、念仏で人は救われる(浄土に往生できる)として、貴賎僧俗老若男女問わず、念仏の教団として人気を博していました。
それが吉水教団です。
それは同時に、比叡山や奈良の興福寺など、厳しい戒律を守って修行を続けている人々にとっては全否定されていることと変わらぬようにも映るため、常に延暦寺、興福寺からは敵視されているような状態でもありました。

そして、親鸞は、厳しい戒律の中でも覚りきれない愚かな自分を抱えつつ、覚悟を決め、拠り所を求めて吉水教団へと向かうのでした。

さて、親鸞が法然の元で念仏に勤しんで6年がすぎ、親鸞35歳の頃、法然の弟子の数名が起こした問題をきっかけに、法然以下、数名の門徒が処刑、または遠流に処されることになりました。
親鸞もその一人でした。
このことは、親鸞の著作、『教行信証』の後序にも記されています。

「ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛んなり。しかるに諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷ひて邪正の道路を弁ふることなし。
ここをもつて興福寺の学徒、太上天皇[後鳥羽院と号す、諱尊成]今上[土御門院と号す、諱為仁]聖暦、承元丁卯の歳、仲春上旬の候に奏達す。主上臣下、法に背き義に違し、忿りを成し怨みを結ぶ。これによりて、真宗興隆の大祖源空法師ならびに門徒数輩、罪科を考へず、猥りがはしく死罪に坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて遠流に処す。予はその一つなり。
しかればすでに僧にあらず俗にあらず。このゆゑに禿の字をもつて姓とす。空師(源空)ならびに弟子等、諸方の辺州に坐して五年の居諸を経たりき。皇帝[佐渡院、諱守成]聖代、建暦辛未の歳、子月の中旬第七日に、勅免を蒙りて入洛して以後、空(源空)、洛陽の東山の西の麓、鳥部野の北の辺、大谷に居たまひき。同じき二年壬申寅月の下旬第五日午時に入滅したまふ。奇瑞称計すべからず。別伝に見えたり。」

さて、この中の

「主上臣下、法に背き義に違し、忿りを成し怨みを結ぶ。これによりて、真宗興隆の大祖源空法師ならびに門徒数輩、罪科を考へず、猥りがはしく死罪に坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて遠流に処す。予はその一つなり。
しかればすでに僧にあらず俗にあらず。このゆゑに禿の字をもつて姓とす。」

この部分を読むと、ん?と気づくことがあります。

親鸞、この一件、本気でマジギレしてた?

教行信証を書いたのは遠流に処されてからずっと後のことですから、それでもこの言い回しをするということは、何年経っても

「あの頃を思い出すと未だにムカつくわ」

ということでしょうか。
何となくわかるような気がします。

それに、吉水にいた頃、法然と自分の信心は同じものだ、と言って、他の兄弟子たちと張り合ったり、念仏は信か行かでも門弟たちと争ったり。

しかもそのどちらも、法然と同じとお墨付きを貰っていたので、他の門弟たちからは煙たがられていたと思われます。

つまり、僕が見る親鸞とは







荒ぶる親鸞





な訳です。
そのことを自覚していて、それでもその本来の自分のあり方を捨てられず、見ぬふりもできなかった。
自分に建前を使うことができなかった。
ゆえに、たくさんの人とぶつかり、悩みにぶつかってきた親鸞を、法然はそのまま受け止めてくれたのではないでしょうか。
正確には、法然の説いた仏教が、親鸞の救いになったのではないのかなと思うわけです。

親鸞は親鸞として生きれば良いのだ、と。

聖人として、高僧として崇められる親鸞ではなく、人間臭い親鸞だからこそ、真宗のいう「念仏は悪人(人は罪を犯さずには生きられないので、人間である限り全て悪人となる)こそ救われる」ということが、本当の意味で伝わって行ったのでしょう。

しかし、言葉だけで読もうとすると、悪いことをしても救われるのなら、悪いことした方が得だ、と勘違いする人も増えてきます。

次回は、親鸞の救われた仏の教えとはなんなのか、ちょっと考えて見たいとおもいます。