浄きを願い、穢れを恐れ嫌う。
普通ではないもの、願いとは逆のもの、失敗や老い、病い、死など、穢れとして忌み嫌う。
何故だろね。
神社では、様々な穢れを細かく規定し、その穢れに該当する人の参拝を禁忌として拒否していました。
今もまだあるのかな?
まず産穢、死穢、ともに30日。
喪家50日。
つぎ、触穢として
五体不具30日
失火3日
堕胎、流産 3ヶ月以前は10日、4ヶ月以後は30日。
妊娠者の着帯以後はNG、夫は問題無し。
生理は生理中と終わって以後7日。
鹿食100日。
穢れのある人の触れた、火を通したものは7日。など。
根拠もなく、実にくだらん。
でも、人間て何故かこの根拠のない浄穢観が好きで、未だにそれに引きずられてる。
家族に問題児や障害を持った人がいれば、世間体を気にするのも穢れと思っているから。
老いた両親の介護を嫌がるのも、穢れと思っているから。
貧乏な人を見下すのも、身分の違いを穢れと思っているから。
性差別も穢れと思っているから。
期待に応えられないことに恐れるのも、穢れとみなされて攻撃されたり、見捨てられるのが怖いから。
自分は、自分だけは清く正しいと思っている、思いたい、のが人間。
悲しいけど、現実はそうじゃないのよね。
キリスト教の聖書にこんなエピソードがある。
イエスの前に、ある男が姦淫罪の容疑で一人の女を連れてきた。
男は言った。
「この女は姦淫罪を犯した。十戒にも刻まれた、神との契約を犯したのだ。それは大罪だ。罪人は石打ちの刑と決まっている。それでもお前はこの女を許せるのか」
イエスは答えた。
「この中で、一度も罪を犯したことのない者が、この女に石を投げるといい」
周りを取り囲んでいた誰一人として、石を投げることはなかった。
大なり小なり、人は罪を犯す罪人であり、そうでなければ生きることはできない。
浄穢観でいえば、誰であれ穢れてると言える。
つまり、そんな程度の浄穢観であるから、そんなものに依る根拠はないのだ。
なぜ、それに気づかないのだろうね。