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ティティ探偵の興味津々(パート2)

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やっと、関東地方も梅雨が明けましたね。

これから、まだまだ暑さは厳しくなりそうですが

8月7日はもう二十四節気でいう「立秋」です。

 

よく、テレビなどで

“ 暦の上では「立秋」ですが、・・・ ”

といい、季節感のずれが指摘されます。

 

今回は季節感のずれについて書いてみます。

 

古代中国で月の満ち欠けを基にした「太陰暦」では数年すると

季節が大きくずれるため、太陰暦とは別に、生活や農業に

役立てるため太陽を観測して季節を知る方法が考えられて

いました。

「太陽観測の原理」

●「二至(にし)」

観測で分かりやすいのは、太陽の高度が最も高く影の長さが

最も短い「夏至」と太陽の高度が最も低く影の長さが最も長い

「冬至」です。この二日は夏と冬の極まりとして夏の真ん中、

冬の真ん中とされました。

 

●「二分(にぶん)」

すると、二至の真ん中で影の長さが半分となる日は春と秋の

真ん中ということになり「春分」と「秋分」が決まりました。

 

●「四立(しりゅう)」

さらに、それらの真ん中はそれぞれの季節が立つ(始まる)日

とされ、「立春」「立夏」「立秋」「立冬」が決まりました。

 

●「八節(はっせつ)」

「二至」「二分」「四立」を合わせたものを八節と呼び、

天文学的・暦学的に決まるので季節の基準とされました。

太陰暦に閏月を挿入して季節を合わせる太陰太陽暦の作成にも

つながりました。

 

 

●二十四節気

太陽の動きから天文学的・暦学的に決まる八節の間に、自然界

の様子や農作業などを入れて季節を知り、生活や農業に役立つ

ようにした暦が二十四節気です。

太陽の動きを基にしていますから太陽暦に近いものです。

 

 

 

 

では、二十四節気と我々が感ずる季節感とのずれはどうし

て生じるのでしょうか?

 

●二十四節気の作成された地域の気候

上記のように二十四節気は古代中国で太陽の動き・自然の様子

・農業の手掛かり、などの観測を長期間積み重ねることにより

次第と完成されていったものなのです。

季節感を調べるために、二十四節気の作成された中国の黄河

流域・殷の都の跡(殷墟)のある安陽市とほぼ同緯度にある

日本の水戸市の年間平均気温を比べてみます。

 

 

 

 

安陽市の気温が最も高いのは「大暑」のときで、最も低いのは

「大寒」のときです。

二十四節気にぴったり合っていますね。

 

一方、水戸市の気温が最も高いのは「立秋」のときで、最も

低いのは「大寒」~「立春」のときです。

水戸市は安陽市より約1節気(約15日)遅れて気温が変化

しています。

これは大陸性気候の中国海洋性気候の日本との気温変化の

差によるものなのです。

これが二十四節気と季節感のずれの原因なのです。

 

二十四節気には「立春」や「春分」などの「八節」のように

太陽がちょうどその地点に来る瞬間(日)のあるものと

「雨水」や「啓蟄」のようにおよその時期(期間)を示すもの

とがあります。

雪や氷が決まった日に一斉に融け始めたり、虫が決まった日に

一斉に出てくるということはありませんね。

 

二十四節気の説明に、

「その節気に入る瞬間(日)を示すとともに、次の節気の前

 までの期間をも示す」

とあります。

この図は二十四節気を期間として表しています。

 

 

“ 暦の上では「立秋」ですが、・・・ ”

という言葉は立秋を瞬間(日)として捉えて使っていますが、

立秋が期間を表すとするならば、今年は立秋である8月7日

から次の節気である「処暑」の前の日(8月22日)までが

立秋となります。

東京辺りでもお盆を過ぎると(立秋の後半)、朝夕に涼しさを

感じたり、鰯雲を見かけたりすることがあります。

秋を感じることがあります。

 

心の大らかな人は“季節感にずれがある”と言わないで、

立秋の期間中なのだから 「まっ、いいか」 となるかも

知れません・・・?

 

 

(おまけ)

よく、季節感のずれを新暦と旧暦のずれから来ているとか、

明治政府が旧暦の明治5年12月2日の翌日を新暦の

明治6年(1873)1月1日と、一ケ月早めて改暦したため

だという人がいますが、これは誤解です。

 

新暦(太陽暦)も旧暦(太陰太陽暦)もそれぞれ別々に作成

され、独立して世界で使われてきました。

暦の両者に何の関連性はありません。

 

新暦と旧暦の暦のずれを知るためには、暦の始めの1月1日が

どのように決まったかを調べれば分かります。

 

●暦の始め(1月1日)の決め方

 

・太陽暦

 太陽暦の元になっているのは古代ローマの暦で初期のものは

 月数も10しかなく、厳冬の時期には月日が割り振られて

 いませんでした。

やがて1月・2月が追加され一年が12月となりました。

現在の暦に近い形に整備したのがユリウス・カエサル

(ジュリアス・シーザー)で、4年に一度閏年とすることで

ほぼ実際の一年の長さとなり、「ユリウス暦」として

紀元前45年から導入されました。

 

 西暦325年、「ニケア宗教会議」が開かれ3月21日を

 「春分の日」と固定することが決められました。

 これはキリストの復活と春の訪れを祝うイースター(復活祭)

 が「春分後の最初の満月のあとの日曜日」に行われるように

したもので、宗教上の理由によるものです。

したがって、1月1日もそこから遡って決まりました。

 

16世紀になり、1500年以上も使ってきたユリウス暦の

ずれ(約10日)が大きくなったので、西暦1582年、

ローマ法王グレゴリオ13世によって閏年の入れ方を4年に

一度から400年に97回とするなどの調整をした太陽暦・

「グレゴリオ暦」が制定され現在まで使われてきています。

 

・太陰太陽暦

 月の満ち欠けを基にした太陰太陽暦では、各月の始めの

1日は新月の日で、立春の日を一年の始めとする(したい)

ことから、立春に近い新月が11日となります。

 

すなわち、それぞれの暦の1月1日は、太陽暦が宗教上の

理由で決まったのに対し、太陰太陽暦は各月の1日は新月と

決まっていますから立春に近い新月を1月1日にすればよい

だけでした。

 

 

このように、新暦と旧暦の暦の始め(1月1日)はお互いに

関連もなく独立して決められているのですが、長年の経験から

どちらも長い冬を終え、動植物が活動を始める春を暦の始めに

もってきているのは不思議な人間の感覚です。

「閏月のある2020年」

 

「閏月の無い2019年」

 

●明治5年の改暦

明治新政府は維新以来、欧米諸国との交流において暦の違いに

不便を感じており、明治5年11月9日に太政官布告を出して

「明治5年12月2日1872.12.31をもって太陰太陽暦を

廃止し、その翌日からグレゴリオ暦に移行、明治6年1月1日

とする」こととしました。

すなわち、旧暦から新暦に乗り換えたのです。

「改暦」というと、それまでの不具合を修正し暦を改めると

思いがちですが、明治5年の改暦は暦の修正はなく、旧暦から

新暦に乗り換えた(切り替えた・移行した)だけなのです。

決して、明治の改暦によって季節が約一ケ月ずれたわけでは

なく、もともと旧暦と新暦はずれていたのです。