古来中国では春になると、春を寿ぎ無病息災を願う厄払いの
行事(上巳節会:じょうしのせつえ)が旧暦3月の最初の巳の
日に行われていました。 最初は水辺で身体を清め穢れを祓う
行事でしたが、次第に宮中でうねり曲がった人工の流水に盃を
浮かべて酒を飲む宴(曲水の宴)へと変化し、庶民には水辺
での春の遊びとなっていきました。
三国時代(220~280)になると縁起の良い奇数の「3」の数字
の重なる3月3日に日付が固定されました。
「蘭亭曲水図」
この「上巳節会」は遣唐使によって日本へ伝えられ大宝元年
(701)には宮中の公式行事として採用されました。
その内、宮中で開催されていた曲水の宴は、娯楽として貴族の
間にも広がって行き、さらには、禊(みそぎ)の神事とも
結びついて紙や草で作った人形(ひとがた)で自分の身体を
なでて穢れを人形に移し川や海に流してお祓いをするように
なりました。これは「流し雛」のルーツと言われています。
また、旧暦の3月3日は桃の花の咲くころでもあることから
「桃の節句」とも呼ばれました。
「曲水の宴」 葛飾北斎
一方、平安時代の宮中では10歳くらいまでの子女が、紙の
人形で貴族の日常生活を真似て遊ぶ「ままごと」が行われて
おり、小さくて可愛いという意味の「雛:ひ(ゐ)な」という
字を当てて「ひ(ゐ)な遊び」と呼ばれていました。

やがて、この遊びが「上巳節会」と結びつき、親が子供の幸せ
を願って男女一対の「ひな人形」に厄を引き受けてもらい、
子供の健やかな成長を託す行事になっていきました。
さらに、武家社会になると、5月5日の男の子の節句に対して
3月3日は女の子の節句と分けられるようになり、男の子の
「端午の節句」「菖蒲の節句」に対して「ひな祭り」「桃の
節句」と呼ばれるようになりました。
江戸時代に入り、「五節句」が幕府の公式行事に制定されると
人形は厄を祓う「流しびな」の形態から「飾るひな人形」へと
変化し、次第に豪華なものになっていきます。
「寛永雛」・・・3代将軍家光の時代
開運なんでも鑑定団で100万円の値が付く

「享保雛」・・・8代将軍吉宗の時代
大型化したため24cm以上は禁止
吉宗の亡くなった江戸後期には内裏雛以外に「三人官女」など
「添え人形」と呼ばれる人形の種類も増え段飾りをして豪華と
なり、現代と同じようなひな人形となっていきます。
ひな人形を飾るのは日本特有の行事だそうです。
「三十六佳撰 ひな遊」 水野年方

現代の豪華な5段ひな飾り(関東風)
① 内裏雛(だいりびな)・・・一段目
・男雛と女雛とが一対のひな人形で天皇と皇后を模したもの
② 三人官女(さんにんかんじょ)・・・二段目
・宮中に仕える女官で通常3体1組の人形。
③ 五人囃子(ごにんばやし)・・・三段目
・能のお囃子を奏でる5人の楽人。
④ 随身(ずいじん、ずいしん)・・・四段目
・貴族の護衛として随従した近衛府の官人。
向かって右が年配者、左が若者。
⑤ 仕丁(じちょう、しちょう)・・・五段目
・熊手、塵取り、箒を持つ3人1組の従者(邸内・京風)
・日傘、履物、笠を持つ3人1組の従者(外出・関東風)
いろいろ疑問があるのですが、それは次回にします。
つづく













