第94回アカデミー賞授賞式で事件が起こりましした。

俳優のウィル・スミス氏が、司会者であるクリス・ロック氏を平手打ちにしたのです。

 

これについて思うことがるので、書き残しておきたいと思います。

 

経緯と社会的反応

なぜこんな事件が起こったのか。

報道によると次の通りです。

 

まずそもそも、ウィル・スミス氏の妻ジェイダ・ピンケット・スミスは脱毛症を患っていました。

そしてクリス・ロック氏は、このことを揶揄する発言をしました。

これに激怒して、ウィル・スミス氏が平手打ちしたとのこと。

 

さて、この一件に対して、様々な反応が見られました。

 

まず肯定的な意見。

ある人は、「ウィル・スミスかっこいい。」

ある人は、「病気を揶揄するのは許容できない。」

ある人は、「言葉の暴力だ。」

 

一方で、否定的な意見。

ある人は、「アカデミー賞を汚すな。」

ある人は、「ジョークに対して手を出しちゃだめだよ。」

ある人は、「どんなことがあっても、手を出したら負けだよ。」

 

今回は最後に挙げた2つの意見について検討していきます。

 

ジョークとは何か

まず1つ目。

「ジョークに対して手を出しちゃだめだよ。」

ここで問題となるのが、そもそも「ジョーク」とは何かという問題です。

果たして、誰かを傷つけるような発言までもが、「ジョーク」として許容されねばならないのでしょうか?

 

もし今回、クリス・ロック氏が「黒人」を揶揄するような発言をしていたらどうでしょうか?

人種差別も「ジョーク」として許容されたでしょうか。

おそらく、大きな非難を浴びたことでしょう。

 

あるいはヘイトスピーチはどうでしょう。

近年ではヘイトスピーチは許容されるものではないとして、法規制が進んでいます。

ヘイトスピーチは許されるものではないとの社会的合意ができつつあるようです。

 

一方で今回の事件では、病気の揶揄は「ジョーク」として許容されうる余地があることも浮き彫りになりました。

それが、「ジョークに対して手を出しちゃだめだよ。」という発言に端的に表れています。

 

人種差別的発言・ヘイトスピーチと病気の揶揄。

いずれも誰かを傷つける発言です。

 

しかし、片や差別で片やジョーク。

両者の間に一体どのような差があるというのでしょうか?

 

ジョークはその場を和ませるものです。

相手を楽しませるものです。

 

したがって、誰かを傷つけるような発言はジョークではあり得ません。

クリス・ロック氏にはジョークの才能がなかったのでしょう。

 

「手を出したら負け」なのか?

次に2つ目。

「どんなことがあっても、手を出したら負けだよ。」

 

これは確かにその通りかもしれません。

 

現代社会では自力救済は禁止されています。

これを認めると、「力」がモノを言う修羅の世界になってしまうからです。

これを防ぐために「法」が制定されいます。

法に基づいた理性的な問題解決が求められているのです。

 

しかしながらこの主張は、より広い視点から見た時に、深刻なジレンマに直面するのではないでしょうか。

すなわち、ウクライナです。

 

ロシアの進攻に対してウクライナは抵抗しています。

これは、どんなキレイごとを並べたとしても戦争であり、人殺しです。

このウクライナの抵抗に対しても、「どんなことがあっても、手を出したら負けだよ。」というのでしょうか?

 

報道を見ている限りでは、そのような主張は少数派のようです。

 

ウィル・スミス氏は家族を守るために平手打ちをしました。

ウクライナは国を守るために戦争(殺人)をしました。

 

一般に、暴行よりも殺人の方が罪は重いはずです。

しかし、それに枕詞が付けば結果は逆になります 。

「国を守るための(大量)殺人」は称賛され、「家族を守るための暴力」は非難されます。

 

あるいは、「緊急避難的措置」として、国を守るための殺人が許容されるのかもしれません。

しかし、その場合でも、「ではどこからどこまでが「緊急避難的措置」として自力救済が認められるのか」という、閾値の問題が発生するでしょう。

 

いずれにせよ、ウィル・スミス氏の行為を「どんなことがあっても、手を出したら負けだ」と言って非難する人々は、そこまで考えての発言なのか。

疑問が残ります。

 

以上、ウィル・スミス氏の暴行事件を題材に、普段考えている2つの疑問について書いてきました。

 

両者に共通するのは、「どこまでなら許容されるのか」という閾値の問題であるということです。

そして、その閾値が自明ではないからこそ問題になるのです。

 

自明ではないことを自覚し、対話によって 落としどころを探っていく。

キレイごとのように聞こえますが、やはりそのような努力が必要なのでしょうね。

 

おしまい。