こんばんは。3月頭まで夜9時以降は物を食べないというまるでモデルのような生活を送っていましたが、思うところあって好きなものを食べたい時に食べようというライフスタイルに切り替えたところ途端にお腹に肉がつき始めたのでやはり夜9時以降の食事はやめることにしました。モデルではありません。店長です。


さて、今日は最近ハマっている一冊をご紹介。




最果タヒ/ 百人一首という感情


以前にもご紹介しましたが、谷川俊太郎以来の職業詩人といわれる詩人・最果タヒ先輩。
まだ30台前半とお若いですが、豊富な語彙、しなやかな感性、的確で才気に溢れた文才、時代を反映した出自、全てにおいて先輩とお呼びせずにいられない魅力的な作家さんでいらっしゃいます。


この作品においても日本の古典中の古典をテーマに一首一首に対し丁寧で真摯かつユニークな視点、言葉遣いと瑞々しい感性で解説されており、いちいち完全にノックアウトされております。


どんな素顔をされてるのか。気になる人のことはなんでもグーグル先生に訊いてみたくなってしまう我々、というか私の良くもあり悪くもある私の癖なんでしょうが、彼女の素顔はどこにも公開されていませんし作家デビュー以前のバイオグラフィーもほぼ不明です。一言で言うと謎が多い作家さんなのです。

そんなことをしているうちに彼女のこんな一文を目にしました。以下畏れ多くも引用させていただきます。


“私は作品を、作者という存在を知るためのヒントとして見られることが本当に好きではなく、正直、作者のプロフィールとかずっと邪魔で仕方なかった。太宰治が自殺したこととか、一緒に死んだのは誰だとか、そういう話なんて知らずに作品が読めたらどんなだけよかったか。まあ、それは私の個人的な好みの問題だと思うんだけれど、どうしてもそういう情報を抜きにしてものを読みたいという気持ちになる。顔写真なんていらないんだよ。中原中也の澄み切った瞳なんてしらないで、詩を読んでみたかった!余計な話なんだ。作者が短命だったか長生きだったか、自殺したか大往生か、女か男か、病気だったか健康だったか。知るか!そんな個人的情報、喫茶店で年に1回以上会う友達以外で知りたくもない。っていうか友達ですらいつのまにか結婚してたりするのに、なんで肉親でもない大昔の小説家の女性遍歴に詳しくならにゃならんのだ。もちろん、作品の背景を知るというそうした読解が必要なんだとは思う。研究という面では怠慢なのだともわかっている。でも私は私という存在のままでその言葉たちを読みたかったし、彼らが書いた時代がいつであろうとも、解釈する私の感性は現代のものだ。そしてそのズレで生まれる奇妙な理解と誤解が、面白いと思っていた。だから私は、せめて私の作品はどこまでも、私ではなく読者と私の間に、あるべきものだと思っている。私は他者の意識のなかに、言葉というものはあると思っているのだから、いつだって私の作品は、最初から他者のみでできあがっている。だから私のことなんて忘れてしまったほうがいい。私のことが好きか嫌いかなんて本当、作品には関係がなく、いつだってその作品を好きかどうか、それだけのこと。”


いかがでしょうか。

私は、ホントそうですよねー先輩。私が野暮でした。と思いました。なんか。

そんで、この「なんか」っていうのがもしかしたらとても大事な感覚なんじゃないかな、と思うのです。