後ろに目があるわけではないが、右の目端が捉えたのであるから、その人物は右斜め後ろに立っていたのだと思う。なんとなく、熱視線を感じたのは気のせいかもしれないが、初秋の時期であったので、長袖の白いカジュアルシャツにジーンズ姿の若者が文庫本に目を落としながら立っていたのである。中肉中背だが目立つ程に背筋が伸び切っており、肩からかけた黒いショルダーバッグという朝の通勤ラッシュの時間帯には不似合いな服装であった。そして、驚いたのは坊主頭であったことであった。三十歳位であろうか、まるで大学受験の予備校生のような恰好をした男性が私の後ろに立ち並んでいたのである。

 

 しかし、服装にしても全体的に清潔感が漂っており、色彩も妙に調和している。私が異様に感じたのは、その不思議というか不気味なオーラであり、顔つき、眼つきであった。顔立ちは凛々しいものがあるが、眼つきが危ないというかニヤケたような性的変質性を感じさせるのである。酒に酔って、羽目を外し出す寸前の修行僧という感じであった。

 

 翌朝もよく翌朝も見かけた。私がこの乗車口に立ち並ぶようになって、しばらくの間、見かけなかったのは、何か仕事の事情があったのだろう。

 

 しかし、参ったな。私は心中呟いた。

 

 既に私は気づいていた。神の偶然で、私が目撃した痴漢サイトのカキコをなしたのは、この坊主頭の暗そうな青年に違いないということである。彼としても、まさか、私が、奇跡でそのカキコを見出して、その主がいっていた桜井さんという絶世の美女を探し求めては、ここにいるとは思っていないだろう。

 

 その謎の青年というか、桜井さんという美女を狙った青年を見つけてから、少しの日が経った。

 

 謎の青年は、毎朝ではないが、大体、二日にいっぺん位の割合で、私たちと同じ乗車口から同じ時刻に乗車するのであるが、不思議な若者であった。そもそも、これほど職業不詳という言葉を体現した者もいない感じがした。一見、カメラを抱えてアイドルを追うようなオタク風にも見えるのだが、ただのオタクにも見えない知的威厳というのであろうか自身に満ちたようなオーラが漂っている。

 

 痴漢サイトの一瞬の書き込みという神の奇跡の偶然については、何度か見かけるうちにどうでもよくなっていた。それよりも、こいつがいう妙齢の絶世の美女である桜井さんというのは、どこにいるのだろうか。謎の青年が出現してからというもの、私は桜井さんに対する好奇心が一層激しくなったのである。

 

 謎の青年は、乗車するまでの間、よほど本が好きなのか、文庫本に目をやったまま視線は本から動かさない。電車が到着するまで、誰かを探すとか目で追うなんて事はまったくない。一番考えられるのは、その桜井さんという女性、この青年に迫られるか何かされて乗車位置なり乗車時刻を変えてしまったのではないかということである。それなら見つけられるわけもない話だが、どうも、直感的にそうではないと感じていた。うまく、表現できないが絶世の美女桜井というのは、この乗車口そのものではないにしても近い位置に絶対いるはずだと思っていたのである。これは、言辞に表出しがたい私の願望から生じた思念だったのかもしれないが、やはり、いまだ忘れ得ないY子の面影が通奏低音になっているような気もした。

 

 1つの盲点に気づいた。もしかして、7時38分発、ここから乗車した電車の中に彼女はいるのではないかと考えた。乗車して次の駅は急行列車の乗換駅であり、私も青年もそこで乗り換える。そこで、一駅区間内の彼の言動に注意してみたのだけれど、相変わらず文庫本に視線を落とすだけで、電車の中で誰かを意識するなんて事はまったくなかった。じゃなかったら、線路上すれ違う電車の中で一瞬でも見える女性の事をいっているのかな。突拍子もない事を思いついた私であるが、この時間すれ違う電車はなかった。そもそも外の景色なんかには目もくれず、文庫本に目をやる青年である。そうだとしたら、桜井という女性は人間ではないということだろうか。つまり、何かのポスターや広告の写真・・・。しかし、それだったら時間が限定されるのはおかしい。

 

 なんだか面倒くさくなってきた私である。