仏壇話 -6ページ目

あの世授業30時限目

「畜生道」の事を教えてください

 地獄道、餓鬼道、の話をしてきました。
生まれ変わりたくない3悪道の最後、畜生道について今回は説明します。


 ちなみに畜生道を簡単に説明すると動物や虫などの世界です。
犬や猫などの愛されやすい動物だといいんですけど、ゴキブリなんか生まれ変わってしまうと何だか嫌ですね。
好きな時好きなことができるんですけど、人間に捕まって食べられたりとか、殺されたりとかしてしまう危険が常にあります。
ですが、龍や鳳凰などの霊獣に生まれ変わることができたら、天道と同じような生活が出来るということです。


 ですので畜生道が次に進む道だと閻魔大王に言われると、かなり幅広いジャンルに生まれ変わる可能性を秘めていますね。
大金持ちの愛犬ならばいいですが、大金持ちの家にいるゴキブリだったら住む場所は一緒でも大違いですね。
直ぐ駆除です。
龍だったら神に近い扱いを受けるのですが、畜生道が3悪道の地位にあるのには理由があるのです。
江戸時代よりもかなり昔、衛生状態がよくない時代がありました。
排泄物の処理や遺体の処理を担っていたのが野生の動物です。
特に犬がその担当をしていた時代がありました。
そんな姿を見るとカワイイなんて感じではないですよね。
南極物語で有名な犬、太郎・次郎もアザラシの糞を食べて生き延びたなんて説もあるんです。


 しかしながら、お釈迦さんも輪廻転生する間に何度か畜生道に生まれ変わっています。
あの世授業23時限目で説明した月に昇った兎はお釈迦さんの生まれ変わりだったそうです。
それ以外にも牛になっていたり、ネズミになっていたりしている話があります。
お釈迦さんの動物だった頃のお話も面白いの次回詳しく説明したいと思います。


 人間は食物連鎖のピラミッドの頂点に位置する生物です。
なので生命を維持するのにどうしても他の生物の犠牲なしにはいられません。
自然の摂理なのですが、それ自体を残酷であると捉えてしまう思想もあります。
食べられる側よりも食べる側にいたい。
だから畜生道に生まれ変わりたくないというのが、畜生道が3悪道に入っている理由だったりするかもしれないですね。


〆の言葉
「弱肉強食の世界よりも焼肉定食の世界の方がいい」

あの世授業29時限目

「仏教説話に出てくる餓鬼道のお話を教えてください」


 それではお釈迦さんの10大弟子に数えられるビジュアルNo.1(実際は多門第一)の阿難さんとハンドパワーNo.1(実際は神通第一)の目連さんの登場するお話を2つ紹介します。


 絶世の美男子僧侶だったと言われる阿難さんはモテモテで困っております。
修行したいのですが、女性がほっておいてくれません。
まだそれだけならば対処ができるのですが、なんと餓鬼からも猛烈なアプローチを受けてしまいました。
何と阿難さんを3日後に餓鬼道につれて帰ってしまうと言うんです。
お釈迦さんの元で修行したいと思っている阿難さんは困ってしまいます。
そこで師匠であるお釈迦さんに相談します。
お釈迦さんは阿難さんに大きな鉢を用意させました。
そして特別なお経を唱えるとその鉢の中が餓鬼の備える供物で一杯になりました。
それを阿難さんの追っかけをやっている餓鬼に与えるとモリモリ食べて成仏していきました。
そのお経のおかげで阿難さんはその後20年間お釈迦さんの元で修行を続けることができたそうです。


 次は目連さんのお話です。
ある日、亡くなった母の事を思い出した目連さんは、得意の神通力を使って母の姿を探しました。
天道でのんびりと過ごしていると思った母は実は餓鬼道に落ちてしまっていました。
食べ物を与えようとしても口が小さくなっており、満足に食事をとる事ができません。
飢えと渇きで苦しむ母を助けたいと思った目連さんは師匠であるお釈迦さんに相談します。
お釈迦さんは修行している僧侶に食べ物を施しなさいと目連さんにアドバイスをしました。
口が小さくなってしまって食事が取れない変わりに尊い修行僧が口の変わりになってくれるという事です。
お釈迦さんの言うとおりに施しを行うと餓鬼道で苦しんでいた母の顔が穏やかになり、成仏する事ができたそうです。


 口とは食物を食べるのと同様に、とてもありがたいお経を吐き出す事もできます。
人間の体の一部をお盆の時に餓鬼の一部とつなげる事ができるんです。
お盆には食べ物が食べる事が出来ずに苦しんでいる餓鬼たちの事を少し考えてあげてください。
それだけで善行ができるはずですから!


〆の言葉
「口から始まるパラレルワールド、案外体内はあの世とつなぐ異次元空間だったりします」

特別授業「プレイ・フォワード2」

あの世授業27時限目



 「人は死ぬとどうなるのか?」
大切な人を失うと誰もが持つ疑問です。
普段考えないから、その事を考える必要がある時に答えを聞いても受け入れられないのだと思います。


「西方浄土で阿弥陀如来と共に暮らしている」とか「あなたの心の中で一緒に暮らしている」という答えは信心があるから納得できるのであって、信心を持ち合わせていない人には馬鹿げた解釈に聞こえてしまうものです。
信心の無い人が振りかざす論理が「人は死ぬと無になる」です。
その考えを突き詰めていくと生きた意味さえ必要ないし、生きた証すら必要ないという所まで行きます。
誰かのつながりから自分自身がこの世に生まれ、誰かに育てられ、誰かに弔われる。
感じるか、感じないかは別問題として、人は誰かと係わって生きています。
死んだ後でも、法事や墓参りなどを通じて誰かとつながることは出来ます。
誰かとつながる場所の一つが僕が作っている仏壇です。
会話ができる場所なのです。


人には寿命があります。
願うならば、公平に順序よく旅立ちたいのですが、寿命はそのような形で作られていません。
早く逝く人もいれば、長く留まる人もいます。


親から与えられた事は次の世代に伝えられていきます。
深い愛情も酷い虐待も次の世代に川の流れのように伝わっていきます。
この流れを逆流させて親に戻すのは中々できる事ではありません。
だから、受けた恩恵や苦しめられた体験を親に返す事は無理なんです。
悲しみも怒りも気をつけないと次の世代に伝わってしまいます。
負の輪廻が未来永劫に続いてしまうのです。気づかなければ、一族を破滅に導くことになってしまいます。


その為には、自分自身の信仰を手に入れなければいけません。
手を合わせる行為、自分と自分が向き合う行為によって気持ちの浄化が行われる場合があります。


人の心なんて弱いですよ。
神社仏閣に参拝に行きましょう。そのお寺の住職とお話してみましょう。
その出会いが将来の自分を救ってもらえるかもしれません。
祈りは次の世代の為に。その気持ちがあれば「人の死」に迷う事もなくなるはずです。許しを請う為だけに人生を使ってはダメです。


(来月から通常通りのあの世授業に戻ります。餓鬼道の続きをお楽しみください)


〆の言葉

「祈りも行為も次の世代のために!」