長女が亡くなったのは令和元年(2019年)お盆の最中でとても暑い日中でした。その日から、真夏特にお盆の時期がとても苦手になりました。

その時から、子どもを亡くしたことについて、同様な人たちはどういう気持ちを持つようになるのか必死で探していました。

 そんな時に読んだのが、エリザベス.キューブラー・ロスの「死ぬ瞬間」~でした。

死とその過程に対する様々な姿勢ということで、死に行く人の心理状態を分析していた本のイメージがあります。

 その本の中ではないと思いますが、彼女の名言があります。その中の一つを紹介します。

「二十歳で死のうが、五十歳で死のうが、九十歳まで生きようが、それは問題ではありません。重要なのは自分の役割を果たすことです」

 長女は、どんな役割を果たそうとしていたのだろうととても深く考えます。きっと、人から嫌われないことを願っていたのでしょう。また、弱者に対するまなざしがとてもやさしかったと思います。

 その役割を果たそうとしていた心は、体が亡くなってしまった今でも生きています。私の心の中にずっと生きています。

 

さて、著者の紹介です。

 エリザベス.キューブラー・ロス(著) 1926年スイス生まれの精神科医。18もの博士号を持ち、末期患者を精神的に支える仕事の世界の第一人者。 1969年『死ぬ瞬間』の刊行と「死にゆく過程の五段階」説の発表によって一躍世に知られ、あらゆる喪失体験からの癒しを助けるワークショップを精力的に開催。癒しの仕事の本拠地「シャンティ・ニラヤ」の運営が軌道に乗ると同時に、いよいよ彼女の本来の仕事、自らの体験と二万件以上もの臨死体験例から知った「死後の真実」を人々に知らせるという仕事と取り組む。その著作が『死後の真実』である。死ぬまで一貫して、無条件の愛に生きていた人。共著に、最後の著作になった『永遠の別れ』、死後の世界をこどもに語った絵本『天使のおともだち』(いずれも日本教文社刊)など多数がある。 

 デーヴィッド・ケスラー(著) ホスピス・ケアの専門家。マザー・テレサから賞賛を受けた“The Needs of the Dying"(『死にゆく人に必要なこと』)の著者。エリザベス・キューブラー・ロスの『ライフ・レッスン』では共著者として関わっている。悲嘆と喪失の分野における指導者的存在として世界的に認められており、俳優のアンソニー・パーキンスやマイケル・ランドンが自らの死に直面したとき、共に取り組んだ。エリザベス・テイラー、ジェミー・リー・カーティス、そしてマリアン・ウィリアムスンらも、それぞれの愛する人の死に際して、彼に協力を求めた。

 

印象に残った文章をあげてみました。

「悲嘆にはときに、喪失感を癒すばかりか、人間としてのあなた自身を癒す作用がある。(中略)それまでずっとあなたにつきまとってきた人生観の誤りを発見することになるかもしれない。そのような経験を伴う悲嘆は、大いなる治癒に結び付く機会にもなりうる。」

「深い悲嘆のなかで「私の天使はどこにいるのか」などと考えてしまうことがあるが、われわれはそんなとき、ごく身近にいる天使的な人たちのことをすっかり忘れている。その人たちが見せてくれている愛に気づくことができず、適切な時に適切な言葉をくれるその友人や、ときには全く見知らない人が、実は天使であることが理解できないのだ」

「だれかが亡くなるとき、その人の存在だけではなく、その人が担っていた役割もみんな消えてしまうのだとは、よくいわれることである。たしかにそうなのだが、亡くなった人が担っていた役割の一部がわれわれのなかで生きつづけているということもたしかである。」

「人間の手には負えない状況というものがあり、そこでなお「自分が・・・・・していれば」と考えるのは傲慢の変種ともいえる。ある人が死に、ある人が生きている理由は、人間が問うべき問いではない。その事態を決定するのは神または宇宙である。」

「孤独に沈んでいるとき、同じように孤独のなかにいる人と出会うと、気が楽になるということがある。おそらく、それぞれの孤独の一部が入れかわり、一種の絆ができるのだろう。」

「なかには自分の悲しみを有意義なことにふりむけることによって終結への道を見出す人もいる。酒酔い運転の車に轢かれて子どもを亡くしたシンディ・ライトナーは、怒りと悲しみを「酒酔い運転に反対する母親の会」(MADD)という組織の立ち上げに振り向けることで癒した。」

「急死の場合も、ほかの死の場合と同じく、残された人は一日一日をしのいでいく必要がある。しかし、まったくなじみのない、孤独で感覚が鈍磨したこの世界で、どうやって生きていったらいいのか?そんなとき、ごく日常的な行動をとることが正常な精神の維持に役立つことがある。」

「わたしたちはまた、マザー・テレサとともにすごし、そこで人間のやさしさが見事に体現されている姿を目撃した。最悪の状況の中でも、わたしたち人間は希望の糸をみいだす力を持っている。死のなかにそれがあるように、悲嘆のなかにも生にむかって変容する力がある。悲しむことに時間をかけなければ、苦痛をともなうことなく喪失を回顧し、故人を讃えるような将来の時間を手にすることはできないのだ。」

「わたしの人生にはさまざまなことが起こり、平坦な道ではなかった。これは不平ではなく、事実である。なぜなら、わたしは苦難なくして喜びはなく、苦痛なくして快楽はないことを学んできたからだ。もし死がなかったら、生に感謝することなどできるだろうか?」

「かつてあなたが愛し、また、あなたを愛してくれた人たちは、いつまでもあなたのこころのなかに生きている。人生という旅をつづけていけばいくほど、あなたは以前よりつよく、豊かになり、自分自身に対する理解が深まっていく。」

「悲嘆はつねに作用している。

 悲嘆はつねに癒す力を発揮する。」

「人はなぜ悲嘆するのか?その理由はふたつある。よく悲嘆する者はよく生きることができるから、というのが最初の理由だ。ふたつ目の理由は、これが重要なのだが、悲嘆はこころの治療に必要なプロセスだからだ。われわれは悲嘆という道をとおって、全体性・完全性に回帰していく。」

「人は永久に悲しみ続ける。それが現実である。愛する人の喪失に「打ち勝つ」のではない。喪失とともに生きることを学ぶのだ。心の傷は癒え、苦しんできた喪失の記憶のまわりに、新しい自己を再建するのだ。そしてふたたび無傷の状態に戻る。しかし、以前とおなじ自分にもどるのではない。同じ自分に戻ることはありえないし、戻りたいとも思わないだろう。」

「悲嘆は感情の大変動という激しいサイクルを完成させる。それは喪失を忘れるということではない。二度と喪失の苦しみに襲われないようになることでもない。それが意味するのは、人生を最大限に経験したということ、誕生から死までのサイクルを完成させたということである。われわれは喪失を生きぬいた。われわれは悲嘆とその過程にひそむ力を認める。その力は、我々が癒え、失った人とともに生きるための助けとなる力である。

それが悲嘆という恩寵。

それが悲嘆という奇蹟。

それが悲嘆という贈り物である。」

 

訳者のあとがきには次のようにあります。

「二人の著者は「悲しみぬくことそのものに癒す力がある」と指摘しています。最愛の人を失い、自分も生きていけないと思うほどの深い悲しみに襲われても、その悲しみを「悲しみぬく」ことができれば、心の傷は必ず癒えるものだというのです。」

 

人は、生きることの現実を直視しないように、楽しいことを追い求めているように感じます。

しかし、実際には人生は悲しみの連続です。。。。