長女は、大学2年まで大学に在籍していました。そこで軽音楽と映画サークルに入っていました。結局、軽音楽サークルはメンバーが抜けて活動ができなくなってやめました。映画サークルは、どんな活動をしていたのか詳細は知らないのですが。私も大学時代に約300本の映画を見て鑑賞記録を書いていました。カードに書いて思い出に残そうと保存していまして、長女にそれを見せてあげたことがありました。長女は、読書や映画、音楽鑑賞についても結構夢中になっていたのでこの「福田村事件」をどう思ったか興味があるところです。虐殺シーンがあるので、それで見ないといったかもしれませんが。。。一方、弱者に対するまなざしを持っていたので涙を流して鑑賞したかもしれません。

 

 さて、この映画は100年前の関東大震災が起きて東京をはじめ多くの場所で朝鮮人や社会主義者などが虐殺されました。1説によると、約6,000人が殺されました。その中には、朝鮮人と間違えられて殺された日本人も約60人ほどいたそうです。

どうしてそんなことが起きたのか。。。

当時の時代背景を知らないと理解が難しいですね。そこで年表を見てください。

YOU TUBE エアレボリューション 森達也氏出演!『「福田村事件」から考える日本社会と差別問題』(2023年8月30日放送・前半無料パート部分)ゲスト:森達也、出演 から引用。

1923年はどういった年だったのでしょう。
日本は、朝鮮を植民地支配していました。そして、朝鮮独立運動をする人たちを不逞鮮人と呼んで武力で鎮圧をし続けていました。そういう時は、朝鮮人が何らかのきっかけで報復をしに来るのではないかという心理状態に政府はじめ多くの人たちが陥ります。

そういうさなかに、関東大震災がおこります。当時は、テレビラジオがない時代です。新聞も政府の言論の弾圧の下で真実を述べる状況ではありませんでした。

そこで、朝鮮人が井戸に毒を入れるなど暴動を起こすというデマが広まります。映画の中では警察官が民間人の格好をしてそういったデマを広めていましたね。

次のこの年表を見てください。
大震災の翌日旧内務省が、戒厳令を発動します。これで、自治会が自警団を組織してしらみつぶしに朝鮮人と思われる人たちや社会主義者たちを取り締まったり、虐殺したりするようになります。

その中で、現在の千葉県の野田市にあった福田村では朝鮮人と間違えられた香川県からの薬の行商団(配置薬販売業者)15名が千葉県東葛飾郡福田村(現在の野田市)三ツ堀で地元の自警団に暴行され殺害された事件である。犠牲者は、妊婦や2歳、4歳、6歳の幼児をふくむ9名(妊婦の胎児を含め、10名とする場合もある)。

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映画を観た感想です。

行商団のリーダー永山瑛太が殺される前に言った言葉が印象的でした。
「朝鮮人なら殺してもよいのか。」

実は、この行商団は被差別部落出身の人たちでした。フィクションだと思いますが、その中のインテリ風の若者は全国水平社創立大会(1922年)は参加していたということを言っていました。
朝鮮人に対する差別と被差別部落出身の人たちへの差別が2重に織り込まれています。

結局、虐殺については民主主義のシンパシーである村長も口をつぐみます。いっぽう、史実の上では殺された行商団の中で生き残った6人も香川に帰ってそれを訴えることはありませんでした。また、差別されることを恐れたのでしょう。
 そういう状態でしたから、この福田村事件が歴史の上ではずっと陽の目を見ることはなかったのです。21世紀に入って、監督の森達也氏がこの事件を知ることになり。それから、映画を作ることを始めましたがどこの映画配給会社からも断られて。クラウドファンディング2,000人の協力の元震災100年後にあわせて公開できることになりました。キャストはとても豪華です。

それにしても、近年の政府の歴史修正も窮まりつつあります。2008年に内閣がこの、朝鮮人虐殺を認めていたのにもかかわらず最近官房長官がそんな記録がないとか言い出しました。

権力を持つものは、多くの民衆を支配するために”分断支配”をします。江戸時代の身分制度やイギリスの宗教によってインド植民地支配をした事実が物語ります。そういった、権力の支配のからくりを見抜いて民衆が一致団結して権力をコントロールするのが立憲主義ですが。。。日本もとんでもなく危うい状況かもしれませんね。

 

西ドイツ大統領や統一ドイツ大統領を務めた、リヒャルト・フォン・ワイツゼッカー氏の言葉を忘れてはいけません。

 第2次世界大戦終了40周年の1985年5月、「荒野の40年」と題した議会演説で「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目になる」と訴え、ナチス・ドイツによる犯罪を「ドイツ人全員が負う責任」だと強調。歴史を直視するよう国民に促した言葉は、90年の東西ドイツ統一後もドイツの戦争責任を語る際の規範となった。