聖書ショートコメント -2ページ目

聖書ショートコメント

世界で一番古いベストセラー「聖書の言葉」を少しずつ読みます。
イエス様に出会った人たちに神様の愛を語ってもらいます。
聖書を手に取って読んでくださるきっかけになればうれしいです。

聖書の言葉:マタイの福音書24章36節

ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。

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その日がいつか

だれも知らない

天の御使いさえ知らないことを

どうして詮索するのだろう

 

その日がいつか

だれも知らない

それでも僕らは信じている

その日が必ず来ることを

あの方が帰って来られる

その時を

 

その日がいつか

だれも知らない

すべてが新しくなるその時を

 

争いは終わり

涙は乾き

苦しみも

痛みも

嘆きも過ぎ去る

 

すべての労苦が報いられ

嘆きと悲しみの日々を

喜び震えて振り返る

 

死んだ者がよみがえり

驚きと懐かしさで抱き合うその日

失われたものが取り戻され

不法なものは恥を見る

 

太陽も月も

稲妻もつむじ風も

創り主の前に静まりかえり

創られたすべてのものが

張り裂けるほど胸をたたいて

天を見上げて

驚きあきれる

 

木も草も花々も喜び歌い

空の鳥も野の獣も

声の限りに御名をほめる

 

その日がいつか

だれも知らない

天の御使いさえ知らないことを

どうして詮索するのだろう

 

それでも僕らは信じている

そんな日が

必ず来ることを

 

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聖書の言葉:マタイの福音書23章25節

忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

キリストの前に出た時に

恥ずかしくなりました

人から先生と呼ばれて

いい気になっていた

自分の姿が

 

キリストの前に出た時に

恥ずかしくなりました

人がささげる献金の額を見て

金持ちばかりを重んじていた

自分の姿が

 

キリストの前に出た時に

恥ずかしくなりました

外側は正しいと見えても

内側はごまかしでいっぱいだった

自分の姿が

 

キリストの前に出た時に

涙が流れました

人前でだれよりも長い祈りをしていたのに

だれも見ていないところで

「主よ、あわれんでください。」と

たったの一言も

祈れなかった

自分の心に

 

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聖書の言葉:マタイの福音書22章42節~45節

「あなたがたはキリストについてどう思いますか。彼はだれの子ですか。」彼らはイエスに言った。「ダビデの子です。」イエスは彼らに言われた。「それでは、どうしてダビデは御霊によってキリストを主と呼び、『主は私の主に言われた。(中略)』と言っているのですか。ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」

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イエスはダビデの子孫であるよりも

ダビデの主なのだ

ダビデの主ということは

ダビデの神ということだ

 

イエスがダビデの神なのは

イエスがアブラハムの子孫だからじゃない

イエスが聖霊によって

処女マリヤから生まれたからだ

奇跡的に誕生したからだ

 

マリヤは聖霊によって身ごもったのだから

本当のことを言うと

マタイの福音書の最初の系図は意味がない

あれはただの形式だ

イエスはヨセフの子じゃなくて

イエスは神のひとり子なのだ

イエスはダビデの子である以上に

神の子なのだ

神と等しいお方なのだ

 

本当に大切なのは

聖霊によって生まれるという奇跡

それは

神が石ころから

アブラハムの子孫を起こすような

大奇跡なのだ

 

俺たちに必要なのは

系図じゃない

血統じゃない

生まれじゃない

家柄でも

人種でもない

性別でもない

俺たちに必要なのは

何もかもをひっくりかえす

神の奇跡なのだ

 

まったくダビデの子とは

縁もゆかりもない俺が

どうしようもない

ろくでなしの俺が

十字架の血と

神の聖霊によって

神の子どもになるという

天地がひっくりかえるような

大奇跡なのだ

 

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聖書の言葉:マタイの福音書22章19節~21節

「税として納めるお金を見せなさい。」そこで彼らはデナリ銀貨をイエスのもとに持って来た。イエスは彼らに言われた。「これはだれの肖像と銘ですか。」彼らは「カエサルのです」と言った。そのときイエスは言われた。「それなら、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」

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カエサルのことで

頭がいっぱいな人がいる

その人たちがまじめで

がんばっていることは知っているけれど

カエサルのことだけで

頭がいっぱいなら

歳をとって

頭が衰えて

若い時のような力がなくなったとき

親しい人が一人二人と去って行ったとき

もうどこにも行くあてがなくなってしまう

 

カエサルのものもあれば

神のものもある

カエサルのものも必要だけれど

神のものもあることを

知ってほしい

地上のものも必要だけれど

それははかなく

またたくまに過ぎ去って行く

 

神のものがあれば

歳をとって

能力が衰えて

若い時のような力がなくなったとき

親しい友が一人二人と去って行ったとき

いよいよすばらしい

行くべき場所が見えて来る

 

カエサルのものも必要だけれど

神のものもあることを

知って欲しい

 

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聖書の御言葉: 創世記47章13節~31節

 

13節~26節 ヨセフの統治

 非常に激しい飢饉がエジプトとカナンの全土を襲っていました。このような困難な時期に、ヨセフは神の知恵によってエジプト全土を統治しました。ヨセフの政治によって、エジプトの人々は飢饉によって滅びることなく生存することができました。ヨセフは神の知恵によって困難を乗り越えたのです。飢饉の前の7年間の豊作の間に、ヨセフはエジプト中の余った食物をエジプト人から買い取り、それぞれの町に建てた倉庫に蓄えていました。ですから、飢饉がやって来た時、エジプトの人々はヨセフから食料を買うことができたのです。集めた銀をヨセフはパロの家に納めました。ヨセフは自分の統治によって自分の懐を肥やそうとはしませんでした。それによってヨセフはエジプト人からもパロからも信頼を得たのです。しかし、やがて銀が尽きると、彼らは食料と引き替えに家畜を差し出しました。また、家畜がなくなると、彼らは食料の代金に土地を差しだしました。こうしてすべての土地がパロのものとなったので、エジプト人はパロの小作人となり、収穫の五分の一をパロに納めることになりました。

 ヨセフの政治によって、飢饉という危機的な状況の中で、エジプト人は平安に日々を過ごすことができました。エジプト全土にわたって平和が支配し、暴動や戦争が起きることはありませんでした。

 今の世界を見ると、多くの混乱、不安、貧困や戦争が至るところを支配しています。しかし、やがて時が来て、キリストがこの地に帰って来られるなら、主は、義と平和によってこの地上を治め、神の御心が実現するのです。神がこの地上に完全な御心が行われる日が来ることを聖書は預言しています。そして、その神の国の王として、キリストは神の知恵によって、この世界に義と平和をもたらされるのです。

 

「終わりの日に、主の家の山は山々の頂に堅く立ち、もろもろの丘より高くそびえ立つ。そこにすべての国々が流れて来る。多くの民族が来て言う。『さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう。』それは、シオンからみおしえが、エルサレムから主のことばが出るからだ。主は国々の間をさばき、多くの民族に判決を下す。彼らはその剣を鋤(すき)に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。」(イザヤ書2章2節~4節)

 

27節~31節 ヨセフの誓い

 ヤコブはエジプトに移住してから17年生きました。ヨセフと再会したヤコブは、もう死んでもいいと言いましたが、神はそれからさらに17年の平安な日々をお与えになりました。しかし、ヤコブはエジプトの地があくまでも寄留の地であり、神が必ず自分の子孫たちを約束の地に連れ戻ることを信じていました。そして、アブラハムへの約束によって、エジプトでの滞在の期間が四百年であることも知っていました。そこで、ヤコブは、自分が死んだならば、自分の体をヘブロンにある、マクペラのほら穴に葬るようにヨセフに願いました。そこには、アブラハムとその妻サラ、イサクとその妻レアも葬られていたのです。ヤコブは今、寄留しているエジプトの地が永遠の住まいではないことを知っていました。そして、自分がカナンの地に葬られることで、自分の本当に帰るべき場所を信仰によって指し示したのです。このことを新約聖書のヘブル人への手紙は、彼らが「天の故郷にあこがれていた」と記しています。

 

「これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。」(ヘブル11章13節)

 

「しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。」(ヘブル11章16節)

 

 そしてヤコブは、ヨセフに、必ず自分をカナンの地に葬ると誓うように願いました。そしてヨセフは、ヤコブの前で神の名によってそのことを誓ったのです。ヨセフが誓ったことにより、ヤコブは平安を得ました。なぜなら、誓いは必ず果たされるからです。イエス様は、山上の垂訓の中で「決して誓ってはならない。」(マタイ5章34節)と言われました。それは、人間の誓いは果たされないことがあるからです。ですから、いったん誓われたことは、絶対に成就されるのです。

 

「神は、アブラハムに約束されるとき、ご自分よりすぐれたものをさして誓うことがありえないため、ご自分をさして誓い、こう言われました。『わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす。』 こうして、アブラハムは、忍耐の末に、約束のものを得ました。 確かに、人間は自分よりすぐれた者をさして誓います。そして、確証のための誓いというものは、人間のすべての反論をやめさせます。そこで、神は約束の相続者たちに、ご計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されたのです。それは、変えることのできない二つの事がらによって、――神は、これらの事がらのゆえに、偽ることができません――前に置かれている望みを捕らえるためにのがれて来た私たちが、力強い励ましを受けるためです。この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側に入るのです。イエスは私たちの先駆けとしてそこに入り、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました。」

(ヘブル6章13節~20節)

 

 ヤコブがヨセフの誓いによって平安を得たように、神はご自身を指して私たちのために誓っておられます。神の約束の言葉と誓いによって、私たちは必ず永遠のいのちを得て、神の約束された御国を相続すると確信できるのです。

 

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