Ⅱサムエル22章21-28節
「神様は義なるお方」
      
“義”という言葉は今の時代あまり馴染みがなく、使う機会も少ないと思います。昔から“義”という漢字には独特な存在感を感じていました。例えば、義理人情や義憤等。
一般の辞書で、“義”は⑴ 条理。正しい道。道理にかなったこと。人道に従うこと。
 ⑵ 利害をすてて条理に従う。公共のために尽くす気持…などを意味しています。一方、聖書で言う“義”はそれとは異なり、神様の属性で一番のものは“聖”であり、その聖が人に対して表現されたものが“義”と言われています。つまり神様は常に正しいことを実行されるお方なのです。
 
1. 人生の評価は義が基準
この世の評価の基準は、能力すなわち、効果や効率で計られています。
しかし、神様はこの世の基準ではなく、義という、正しさ、公平、公明、平等などの意味が含まれている義を基準にして評価されます。 言い方を変えるなら、外見ではなく、その人自身の中身を見ておられるのです。行動や働きの評価は、その動機や思いで計られます。
ダビデは自分の経験から、神様が義なる神様であることを述べています。
「主は、私の義にしたがって私に報い、私の手のきよさに従って私に償われる。」これが義なる神の基準です。自分がどのようにこの基準にのっとって行動しているかが、厳しくはかられています。
 
2.基準の性格は…
  「主は、私の義に従って…」とあり、自分の義がいかなるものかが問題となります。自分の中に正しさや、公平、平等さが無ければ、そこには偏見、不平等、利己性が満ちています。
次に「私の手のきよさに従って…」とありますが、これは前者が内的な部分、つまり動機や心の在り方とするなら、これは外敵部分、つまり実際の行動と言えます。
ここでは「報い」や「償い」という違う言葉でまとめられていますが、その正しさや聖さに応じて返してくださることを述べています。
 神様は、あなたの行為に対しては、その正しさに応じて必ず返して下さるのです。正しいことをなして失ったものがあるなら、神様は倍返ししてくださいます。
 
3. 日々、自分を吟味しよう
ダビデは自分の体験から教えられたことを述べています。神様はどのようなお方なのか、それを箇条書きにすると…
⑴ 恵み深い者には、恵み深く
⑵ 全き者には、全くあれ
⑶ きよい者には、きよくあれ
⑷ 曲がった者には、ねじ曲げる方
⑸ 悩む民を救い
⑹ 高ぶる者に目を向け、これを低くされる
…お方です。神様の鏡は正直で、自分の思いと行いが映され、そのように自分が神様より報われるのです。日々、心を静かにして聖書の言葉に触れながら、心の中で主と対話することで、きよくされ、より全き者へ近づくのです。