前回、私たちは、「ことば」すなわち「神の御子なる主イエス・キリスト」について学びました。その3節には「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」という、救い主イエスの、永遠の神としての創造にもかかわっておられる姿をも見ることができました。
主イエスは、最初の人間の創造にも関与され、その人間の人生にも深くかかわっておられます。ヨハネは共観福音書とは少し視点を変え、書き残された部分に焦点を当てながら、「神の子」の働きを述べています。
1.このかたにいのちがあった
上記の言葉から思われることは、漠然と物理的に生きているのではなく、生き生きとした生命力・パワーに満ち、目的や使命感を含有し、他者ともその命を分かち合えるようなイメージが伝わってきます。
主イエス様が筋骨隆々であったかは定かでありませんが、30才まで大工に関わっていたことから、青白い痩せた容貌とは思えません。
主イエス様に、いのちやエネルギーが満ち溢れていること考えてみましょう。数多くの奇跡や、罪人をきよめ、救いを与えられるのも、力のあってのことです。そして、十字架において贖いの死をなし遂げ、そして復活されたことは、いのちを持っておられる証明でした。
2.闇と光
この世はある意味、闇と光に二分されます。明るい黒やくすんだ白、つまり灰色の存在が認められますが、神様のご性質から考えますと、義と悪、聖と汚れは相いれないものであり分離しています。
しかしこの世は、二つの世界が混然一体となっているように思えますが、光に満ちている“神の国”が仮想としてではなく、現に存在しているのです。ある時、主イエスがパリサイ人から「神の国はいつ来るのか」との問いに、「神の国は、目に見える形で来るものではありません。『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」と答えられました。
3.闇は光に勝てない
大切なことは、私たちの心の中、その生活の中に、神様のルールがあり、人と人とが結びつき、それぞれに生きる目的があり、愛を動機として歩む、そのような世界は、まさに“神の国”です。そこに住む人は神の国を慕い愛し、義を求めます。
確かに、神の国の人口は少ないと思います。しかし、周りが真っ暗闇であればあるほど、星の光は燦然と輝きます。暗闇が全てを覆っていたとしても、マッチ一本の灯を消し去ることができません。
その光には希望があります。私たちにとって主イエス・キリストの復活は光であり、闇の中に輝く希望です。この世は確かに闇ですが、私たちが世の光であることを覚えましょう。