4月21日に第1回、5月12日に第2回、と市原市南総公民館主催講座「大御所様徳川家康~もはや迷わぬ~」の講師を務めた私、最終回を5月28日の横須賀見学バス旅行で締めくくった。

           

 

 NHK大河ドラマ「どうする家康」のお陰もあり参加希望者45名、バス2台という講師冥利に尽きる旅となった。

 

 8:30市原市役所出発、5月の好天の日曜日だったが東京湾アクアラインなど高速道も渋滞なく10:15目的地、横須賀市逸見の塚山公園按針塚登り口着。待機して下さっていた地元の「コロボックルの会」(佐藤さとる作『コロボックル物語』から命名の『気負わずユックリと楽しく遊ぶ』をモットーに結成され、『三浦按針会』・『ガリバー会』も兼会)の皆さまと無事落ち合えた。

 

          

     (「コロボックルの会」の方々)

 

この塚山公園内山頂近く)に家康に重用されたイギリス人ウイリアム・アダムスこと三浦按針とその妻ユキの記念碑がある。

 

以前私がこの碑を訪れた時は「按針会」の重鎮Y氏のご案内で塚近くまで車で来られたが、今回は麓の塚山登山口から碑までの細い山道を徒歩で辿ることになった。折角アダムスの足跡を探索するなら按針所領地の往時の姿を偲ぶよすがになるのでは?との同会の方々のお薦めだったからだ。

 

標高133mの塚山だが、私を含め参加者大部分が高齢者。その上狭い山道は結構険しく、碑手前の休憩所に辿りつくまでフーフー。好天でなければこの登山、ちょっと無理だったかも。

 

休憩所では同会の元会長の金子浩吉氏からアダムスの生涯や家康との出会い、この地との関係などユーモア溢れる説明を伺い、現地ならではの感慨を味わう。

 

「按針会」の現会長の田口義明氏は私とはドン・ロドリゴと按針の関係から旧知の中。同氏の本業は逸見の酒屋さん、同店だけの銘酒として「青い目のサムライ」を販売しておられる。

 

残念ながらこの日田口氏は按針墓地のある長崎県平戸で開催中の「按針祭(5月26日)」出席のためお留守。しかも聞けば氏はこの祭り参加のため大行脚に挑戦した由。なんと栃木県佐野の龍江院(アダムス来航時乗船したリーフデ号に取り付けられたエラスムス木像所有寺)から平戸まで1,500キロの道程を4カ月かけて踏破と。今日お目にかかれずとも後日お目にかかった時、素晴らしいお土産話が伺える、と思うと楽しみだ。

 

        

     (「按針」ゆかりの地を訪ねて行脚する田口氏の記事)

 

按針の碑はそこから狭い石段を十数段上った木暗い空間にひっそりと佇んでいる。

 

       

     (按針と妻ユキの碑)

 

遺言と言われる「我死せば東都を一望すべき高所の地に葬れ。さらば永く江戸を守護し将軍家の御厚恩を泉下に報じ奉らん」に従ったそうだが、家康亡き後のアダムスの生涯を考えると、自分を疎んじた2代将軍秀忠居城の江戸城を越えてはるか東北方、自分を重用してくれた主君家康=権現様の鎮座する日光東照宮を向いているように思われる。

 

按針塚でアダムス生涯を回顧の後、お世話になった「コロボックルの会」の皆様に別れを告げて、次は幕末の欧米からの来訪者を讃えるヴェルニー公園・ペリー記念公園へと向かう。

 

 思えば家康はアダムスの「外国人に自国の測量・地図作成などさせてはなりませぬ」の忠言に従い、260年間の鎖国政策の礎を築いた。それゆえペリーは1853年来航した時も深浅不明・潮流不明な江戸湾に船を乗り入れさせることができなかったのだ。

 

 ヴェルニー公園は、楠ガ浦町と横須賀逸見地区を挟んだ横須賀港の奥端、逸見側の海に面した細長い公園だ。幕末の幕府諸奉行を歴任した小栗上野介忠順とフランス人技師レオンス・ヴェルニーが建設した横須賀製鉄所(造船所)跡地(現アメリカ海軍横須賀基地内)が対岸に望めること、「ヴェルニー・小栗祭」がここで毎年開催されることなどから、フランス庭園様式を取り入れた公園として整備、平成13年度末に完成したという。(地図参照)

                                                   

        (ヴェルニー公園マップ)

   

公園内にはその小栗とヴェルニーの胸像やヴェルニー記念館、ティボディエ邸などが移築・設置されている。

 

    (ヴェルニーと小栗上野介の胸像)

 

 公園内は色とりどりのバラが今を盛りと咲き誇っていて、中には「ウイリアム・アダムス」名の深紅のバラもあるとのこと。やはりここでもアダムスだ。海に向かってしゃれたベンチが数多く設置され、観光客ばかりか家族連れや犬を連れた地元の市民ものんびり散策している。

 

ヴェルニー記念館内にはヴェルニーの指示で横須賀製鉄所へ設置された1866年当時のスチームハンマー(動力にスチームを使用してハンマーを持ち上げ、落下する力で金属素材を加工する工作機械)が1/10の模型で展示されている。1/10の大きさとはいえ、圧倒的な迫力だ。実物に接した当時の労働者はさぞ肝を潰したことだろう。

 

(ヴェルニー記念館とスティームハンマー)

              

ティボディエ邸は同造船所技術監督ティボディエの官舎だった洋風平屋建ての白亜の洋館。往時の人々にとって製鉄所とこの邸は「文明開化」の目に見えるシンボルだったろうし、今でも洒落た洋風住宅として住宅会社のCMにも使われそうだ。

 

    

       (ティボディエ邸)

     ヴェルニー公園対岸、楠ガ浦入口には横須賀軍港めぐり遊覧船の発着場やCOASKA(Baysidestores)というレストランビルなどあり、この周辺だけで丸1日ゆったり過ごせそう。横須賀市民は幸せだ。

 

       

         (軍港巡りの観光船)

                    

横須賀市民ならぬ我々旅人はここに心を残しつつも次のペリー記念公園へ。

 

ペリー記念公園は1853年のマシュー・ペリーの久里浜上陸を記念して作られた公園。久里浜海岸と212号線1本を隔てただけの見晴らしの良い公園で、正面の巨大な記念碑が訪問者を迎えてくれる。

            

                 (ペリー来航記念碑)

 

館長さんの説明によればこの記念碑は1901年(明治34年)建立。碑文「北米合衆國水師提督伯理上陸紀念碑」は初代内閣総理大臣伊藤博文筆。文中の「伯理」はペリーの漢字表記。第2次大戦中敵国人顕彰碑として一度撤去されたが戦後すぐ復活された由。時代々々の人心の毀誉褒貶感を思う。

             

公園内ペリー記念館はペリー来航と開国の歴史資料が数多く展示されている。中でも1階正面にある当時の様子を再現したジオラマ模型は素晴らしい。

 

   

   (ペリー記念館と来航時のジオラマ)

 

ペリーは翌1854年日米修好通商条約調印のため再来日したが、その後体調を崩し僅か4年後の1858年63歳で死去した。まさに家康の構築した堅い鎖国の扉を力づくで押し破るために生まれたような人だった?

 

3回に亘っての私の南総公民館「大御所様家康~もはや迷わぬ~」講座はこの横須賀見学旅行で終了。最後のペリー来航、ヴェルニー製鉄所建設、は直接家康とは無関係、と思われるが、牽強付会の誹りを恐れずに言うと、17世紀から19世紀半ばまで240年間の日本の対外交渉政策は家康の確立した路線通りだった、と言えよう。

 

それが良かったか悪かったか、の評価は各人・各時代の判断に委ねるとして…