必要に駆られてではなく、がむしゃらに「文字表現」として書いた時期があった。
自分は、いったい「何」で、「何」を目指し、「何」が必要で、「何」を削ぎ落とせばいいのか?
探り、立ち位置大丈夫?と、気持ちのモヤモヤする部分への慰めだったのだろう・・・。
思い返すと、実に「屁の様な」事だったのかも知れない。
それを「歩いてきた道」として受け入れる!という事は、どういう事なんだろう。

自宅が落雷にあった時、意識した。
阪神淡路大震災の時、意識した。
東日本大震災の時、意識した。
そして、隣県熊本の大地震・・・。
それも「運命」という事なのだろうか?

父母の死に立ち合い、「寿命」「運命」「天命」・・・たくさんの理由をつけ、状況を受け入れなくてはならなかった。

朝ドラ「あさが来た」の、あさの父「今井忠興」にしても、新次郎の父「白岡正吉」にしても、
それはそれは穏やかで潔い最期が画かれていた。
人は、ああは行かないが、それをあえて美しく画く事で、そのドラマに重ねる人は多かったに違いない。
あんな最期を迎えることが出来るなら、私は死ぬ時、決して後悔が残ることは無いと思った。
そして、はつの夫「眉山惣兵衛」が亡くなり、あさの夫「白岡新次郎」が最期を迎える。
ドラマが最終を迎えるに、これほどまでに美しい画き方は無いのではないかと思えた。

「死」を迎える時、私はどうだろう・・・。
私は、両親から何も言葉を貰えなかった。
でも、どうだろう・・・今でも、二人の言葉がいつも胸にある。
それでいいのかも知れない。

イメージ 1


実に優しい顔を描いた。
きっと彼女が、描いた女性の顔は、あんな穏やかにしたいと思う彼女の願望だと思う。

イメージ 2
こんな穏やかな熊本に戻るといいなぁ~。