山行座数合計・・・840座(回)
迷わず「登山」と、前夜決めた。
師走とは言ったもので、仕事は忙しい。
まぁ、そう言う時ほど本来の自分を確認しておかなくては、しんどくなる。
仕事は、自分の意志や時間を会社に売る事だと思っている。
「勤労」は美徳なんだろうか?
本来の自分の人生ありきでなければ、一体誰の人生を生きているのか判らなくなる。
歩いてきた56年が、まんざらでもないのは、「食うための仕事」であって、それが「人生の目標」ではないからだろう。
でも、そんな仕事部分の自分を客観的に見ない様にしているのは、やはり、それで喰っている者の礼儀であり、忘れてはならない「社会の掟」。
遊べる術を持つ者は「幸せ」という、私の主義主張。
それは、それぞれにあって良い事で、他人の「好き」をどうこう言うものではない。
遊ばない・遊べない人を見ると、「可哀想だ」と思う事は、いわゆる越権行為みたいなもの。
「もったいないなぁ~!」とは思うが、あれこれ遊べる術をたくさん持ち合わせているのに、「時間」が無いのは・・・これは「可哀想」の部類。
でも、人それぞれに違う「環境」があるのだから、考えるのは「自分の事」のみで良かろうなぁ~。
それは、それぞれにあって良い事で、他人の「好き」をどうこう言うものではない。
遊ばない・遊べない人を見ると、「可哀想だ」と思う事は、いわゆる越権行為みたいなもの。
「もったいないなぁ~!」とは思うが、あれこれ遊べる術をたくさん持ち合わせているのに、「時間」が無いのは・・・これは「可哀想」の部類。
でも、人それぞれに違う「環境」があるのだから、考えるのは「自分の事」のみで良かろうなぁ~。
休みに在宅なのは、ある意味「気が狂う部類の人間」。
そりゃ大切な部分かもしれないが、「食う」「着る」「住む」に贅沢するのは、私にとって「価値無き部類の事」。
他人を、自分の土俵に引きずり込む気は毛頭ない(頭の毛も無い)が、私も引きずり込まれるのは勘弁だ!
自分のやっている事が、自分にとって「本当に楽しいのか?」判らなくて、ついつい立ち止まってしまう。
「それでいいのか?」
「もっと出来ないのか?」
「そんな事している場合なのか?」
実は、疑問と不安がいつも付きまとっている。
「それでいいのか?」
「もっと出来ないのか?」
「そんな事している場合なのか?」
実は、疑問と不安がいつも付きまとっている。

大分の山、本日3座のピークに立ち、下山した時「来て良かった!」と感じたのは正直なところだ。
「ん~~っ、次はどこ登ろう?」「シーバスゲームをどう展開しよう?」と、次々に「次」を意識するのも正直なところだ。
「ん~~っ、次はどこ登ろう?」「シーバスゲームをどう展開しよう?」と、次々に「次」を意識するのも正直なところだ。
渓流横の、南東に派生する大尾根に取り付く。
のっけから急登で、じりじりと我慢の登りを強いられる。
小規模な岩稜に出くわす度、その弱点を縫うようにトレースするのは気持ち良い。
あまり歩く人も少ないだろうから、くず岩の浮石も多い。
少し楽しい藪山の魅力が凝縮している大石岳だ。
下山後、渓谷の砂防堰堤に腰かけて、ママと、私の作った弁当を食べる。
少し移動して、「城山」に取り付くが、標高差120mの楽勝1座。
下山しまだ14時半、もう1座行けるぞ!と、「吉井山」を目指す。
どこからでも登れるが、駐車可能となると、神社境内をちょっと拝借して造林斜面をずり上がる。
これも標高差80mのお手軽1座。
3座共に「山頂三角点」を有し、登った感十分。
のっけから急登で、じりじりと我慢の登りを強いられる。
小規模な岩稜に出くわす度、その弱点を縫うようにトレースするのは気持ち良い。
あまり歩く人も少ないだろうから、くず岩の浮石も多い。
少し楽しい藪山の魅力が凝縮している大石岳だ。
下山後、渓谷の砂防堰堤に腰かけて、ママと、私の作った弁当を食べる。
少し移動して、「城山」に取り付くが、標高差120mの楽勝1座。
下山しまだ14時半、もう1座行けるぞ!と、「吉井山」を目指す。
どこからでも登れるが、駐車可能となると、神社境内をちょっと拝借して造林斜面をずり上がる。
これも標高差80mのお手軽1座。
3座共に「山頂三角点」を有し、登った感十分。
自宅7:20----日向(朝食)----北川はゆま---宇目---登山口10:50---大石岳12:12---10分休憩---登山口13:16---昼食---移動---登山口13:51---城山14:14---登山口14:38---移動---宇知多神社15:26---吉井山15:41---神社15:56---宇目道の駅---日向(夕食)---自宅19:30