「書く」ということを、私は、「書き残す」という行為ではない気がしている。
小学生の頃、母は私に、とにかく「日記」を書かせた。
低学年の頃は、文章のお稽古なのだろうか・・・先生に毎日提出していた。
先生は、赤ペンで、毎日感想を書いてくれ、それが励みになっていた。
高学年となり、クラスの誰もが先生への提出を止めても、母は私に書かせ提出させた。
正直、単調な日々に、特筆することは少なく、一日の出来事に一言感想な文章だった気がする。
その後、時々でも「日記」みたいな書く行為は続けてきた。
その延長に、ホームページが存在している。・・・のかな?
「書く」ということは、「書き放つ」という行為ではないだろうか?
私のウェブサイトが、「単なる家族の記録」だとか、「日記みたいなもの」という自分の捕らえ方ではあるが、ノートに綴られた秘めた「日記」ではないからだ。
書いてアップロードした瞬間が、「書き放つ」感じなのだろう・・・。
書いたのは自分だが、それは書いた瞬間に自分の手を放れ、読む人の文章になる。
あれこれ書いているうちに、こんなこと書く必要もないよなぁ~!と思ってくる。
最近、特に「書く」事が辛い。
今まで、いつも子ども目線にあれこれ見ていたが、我が子たちの目線は、私を越えようとしている今、自分の中を探そうとする私は、何か例えようも無い不安な迷路の中にいる感じがしている。
何の文句も無い幸せな状況のはずなのに・・・。
そして、また無責任な文章を書き放った。
小学生の頃、母は私に、とにかく「日記」を書かせた。
低学年の頃は、文章のお稽古なのだろうか・・・先生に毎日提出していた。
先生は、赤ペンで、毎日感想を書いてくれ、それが励みになっていた。
高学年となり、クラスの誰もが先生への提出を止めても、母は私に書かせ提出させた。
正直、単調な日々に、特筆することは少なく、一日の出来事に一言感想な文章だった気がする。
その後、時々でも「日記」みたいな書く行為は続けてきた。
その延長に、ホームページが存在している。・・・のかな?
「書く」ということは、「書き放つ」という行為ではないだろうか?
私のウェブサイトが、「単なる家族の記録」だとか、「日記みたいなもの」という自分の捕らえ方ではあるが、ノートに綴られた秘めた「日記」ではないからだ。
書いてアップロードした瞬間が、「書き放つ」感じなのだろう・・・。
書いたのは自分だが、それは書いた瞬間に自分の手を放れ、読む人の文章になる。
あれこれ書いているうちに、こんなこと書く必要もないよなぁ~!と思ってくる。
最近、特に「書く」事が辛い。
今まで、いつも子ども目線にあれこれ見ていたが、我が子たちの目線は、私を越えようとしている今、自分の中を探そうとする私は、何か例えようも無い不安な迷路の中にいる感じがしている。
何の文句も無い幸せな状況のはずなのに・・・。
そして、また無責任な文章を書き放った。