ある方が亡くなられた。
奥さんは、数年前に先立たれ、一人暮らしであった。
子供は無かったそうだ。
遠縁に当たる知り合いに呼ばれ、年忌の済んだお宅に招かれた。
片付いている室内、整理された棚の書類。
生前の几帳面さが伺えた。
中でも、記念写真アルバムの棚には驚いた。
たくさんのアルバムが、年代や行事毎に判りやすく書き込まれ並べてある。
聞けば、室内の殆ど・・・いや、家を含めて処分しなくてはならないと言う・・・。
思い出の詰まった室内の全てがゴミになる。
『もったいないですね!』・・・
『辛いですね!』・・・
『誰も引き取る人はいないのですか?』・・・
『折角の思い出のアルバムなのに・・・。』・・・
言いたくても言えなかった。
それを、誰が負うのか・・・など、私が聞けるはずが無い。
50冊はあろうかというアルバムは、いったい何の誰の思い出であり記念なのだろう・・・。
言葉に詰まり、話だけを聞いた。

そんな出来事に出会う度、私の書き残す文章や、取り貯めた写真はどうなのだろう?と・・・
そして、私は無き両親の何を思い出に保管しているのだろう?と・・・

でも、自分の生きた証を残す事が、どんな価値があるのか判らない。
ウェブ上に、「家族の記録」などと称しホームページを作る事は、あまりにも薄っぺらい気がする。
この歳になって、ようやく気付き始めたのは、自分が今生きる事への感謝の念である。
確かに、自分が存在出来るのは両親・祖父母・曽祖父母・・・・と、先祖ありきの事。
だからと言って、両親の墓前に祈る程度で、別段何をすることもない子孫である。

「証」に執着し、自分の足跡が消えてしまわないか心配で仕方ないのは他ならぬ自分である。
「往生際の悪さ」を持ちすぎた人間である。
しかし、何も残さなかった両親だが、子である私は「証」を心に抱いている。
私は、生まれて来てくれた子供達の心に、HPや写真アルバムでもない、私の「証」を書き綴れたらいいなぁ~!と思っている。