社会の最小単位は、「一個人」でなく「夫婦」「兄弟」「家族」というものだろうか?
根底にそれがあり、そこからの展開として世間がある。
世間社会では、ホンネで渡り歩く事は出来ない。
会社社会であるならば、なお一層の事である。
ならば、「本音」とか「素直」とかを押し殺し、社会的地位に媚びて渡り歩かなくては、いわゆる「落ちこぼれ」なのだろうか?
確固たる自分の主義主張やスタイルがあるならば、自己を核として生きる事ができるのだが、やはりそれは限られた人達だと思う。
果たして核になり、自分の周囲を部下?媚びる取巻き?で固めて、幸せなのだろか?
社会的地位を経済的に判断するならば、貧乏人の私はどんなザルの目にもかからない。
だが、根底にある社会の最小単位である「家族」には恵まれ、ささやかな幸せに包まれることが出来る。
ただ、「家族」という社会の中では、「楽しくある!」と言う事だけでは決してないのだ。
その中では、素直に喜怒哀楽を表現し、受け止め、共に分かち合う場でなくてはならない。
デパートやレストランで、周囲に見せるために振舞う家族を見ると、痛々しくなる。
体裁に縛られ、素直な感情表現を出来ない家族・親子・夫婦・・・、そこに「病」の原因めいたものがあるに違いない。
どうだろう・・・?
ここで、「立派な親であること。」「立派な子供であること。」「立派な夫婦であること。」を止めようじゃないか!
情けない親でも、出来の悪い子供でもいいじゃないか!
「幸せ」を些細な所に見つけ出せる「家族」になろうよ・・・。
根底にそれがあり、そこからの展開として世間がある。
世間社会では、ホンネで渡り歩く事は出来ない。
会社社会であるならば、なお一層の事である。
ならば、「本音」とか「素直」とかを押し殺し、社会的地位に媚びて渡り歩かなくては、いわゆる「落ちこぼれ」なのだろうか?
確固たる自分の主義主張やスタイルがあるならば、自己を核として生きる事ができるのだが、やはりそれは限られた人達だと思う。
果たして核になり、自分の周囲を部下?媚びる取巻き?で固めて、幸せなのだろか?
社会的地位を経済的に判断するならば、貧乏人の私はどんなザルの目にもかからない。
だが、根底にある社会の最小単位である「家族」には恵まれ、ささやかな幸せに包まれることが出来る。
ただ、「家族」という社会の中では、「楽しくある!」と言う事だけでは決してないのだ。
その中では、素直に喜怒哀楽を表現し、受け止め、共に分かち合う場でなくてはならない。
デパートやレストランで、周囲に見せるために振舞う家族を見ると、痛々しくなる。
体裁に縛られ、素直な感情表現を出来ない家族・親子・夫婦・・・、そこに「病」の原因めいたものがあるに違いない。
どうだろう・・・?
ここで、「立派な親であること。」「立派な子供であること。」「立派な夫婦であること。」を止めようじゃないか!
情けない親でも、出来の悪い子供でもいいじゃないか!
「幸せ」を些細な所に見つけ出せる「家族」になろうよ・・・。