※こちらは鶴野有紗が書いた「エトワール・ナイトレイド」というシリーズのスピンオフ寄稿であり、鶴野姉の作品となります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 気怠い身体を起こし、ベッドサイドのスマートフォンに手を伸ばす。クラスメイトの友人からの連絡が入っていて、まだ腫れぼったい瞼を無理ない程度に開けて確認する。
『ちーちゃん大丈夫?今日の分のノートは取っといたし、明日も無理だったらゆっくり休みな!そんで元気になったら今度こそ二人で一緒に遊ぼ☆』
 適当な返事を送って画面をログオフにし、ズボンのポケットに突っ込みつつベッドから降りた。朝に比べて倦怠感は大分落ち着いたようで、自室を出てリビングに向かう。一日中寝ていたら流石に喉も乾くというものだ。冷蔵庫から2リットルペットボトルの水を取り出し、水切りラックに置いてあったコップを適当に掴んで注いだ。
 夕暮れ時のぼんやりした光も相まって、自分以外に誰もいない家はやけにがらんとして虚しく映る。気まぐれにリモコンでテレビをつけてみると丁度ニュースの時間のようで、女性アナウンサーが真面目な顔で原稿を読み上げていた。
『今朝死体で発見されたのは○○市在住のさん十九歳。自室のベッドで亡くなっており、目立った外傷はなく、警察は事故・他殺の両方面から捜査を進めています』
 テレビを観ながらコップに口をつける。
「……ふーん」
 良かったじゃん、綺麗に死ねて。
 ゴクリと、冷たい水が喉を通って呆気なく腹の中に落ちていった。




















  さて、今宵語りまするは一人の少女の物語。
決して主人公にはなれない、脇役の独白劇でございます。



































 電脳世界のアバターは、往々にして現実世界の己よりも美化された姿になることが多い。かくいう私もその一人だ。
 だけど。

「はじめまして、私はユリア!私の願いは『綺麗に死ぬ』ことです!」

 神様が緻密に計算して完璧に作り上げたような美しい姿を携えた彼女は、内側から発光しているかのように強烈な存在感を放っていた。アバターの上辺の虚構だけでは表現出来ない力強さは、恐らく現実世界でも彼女が美しく在るのだろうと結論付けさせるには充分過ぎるほどだった。
 それは私がけっして手に入れることの出来ない光。彼女は私の陰鬱とした胸の内など知ったことではないとでも言いたげに、極上の笑みを浮かべていた。


          ★


 私は特別な存在になれない。
 そんな事には物心付いた頃には気付いていた。特別というのは、主役、一番等の言葉に置き換えてもいい。両親にさえまともに相手にされなかった私は、とにかくそういった唯一無二の存在にはどうしてもなれなかったのだ。いつだって主役の傍にいる『誰か』で、替えのきく有象無象の一人である。
「ユリア」
 階段の踊り場の横の扉を抜け、長く続く平坦な廊下を越えたその先。色とりどりの花が咲く中庭のベンチに、彼女は座っていた。私の声で振り向いた彼女の栗毛色の柔らかい髪が楽しげに踊る。アバターでさえカラスのように真っ黒で面白みもない私の髪とは雲泥の差だ。
「チヤ、ごきげんよう」
「は?何その挨拶」
「あは、だってここってお嬢様学校みたいでしょ。漫画で読んだことあるけど、こんな感じじゃなかった?」
「あー、上級生と下級生で姉妹を作ってどうのこうのってやつ?」
「そうそれ!」
 彼女がきゃらきゃらと笑う。何気ない仕草でさえ可愛いのだから感嘆せざるを得ない。
「いや、ていうかそんなの今はどうでもいいって。それよりいい加減班のみんなと喧嘩するのやめなよ。毎回緩和剤になる私の身にもなってくれない?」
 私が彼女を追ってきたのは、これが初めてではない。奔放な彼女はよく他の班の人達と衝突するのだ。みんなが等しく見せ場があるように求める他の班の皆と、自分が一番なのだから自分が目立った方が舞台映えするという彼女の主張は、いつまでも平行線のままで交わることを知らない。そもそも舞台役者を目指したことなどない人間が大半だろうに、どうして演劇で競わせるというのだろう。とはいえ、それ以前にこんな胡散臭い電脳世界に突然招待されて参加しているお前が言えることではないと言われれば口を噤むしかない。
 私にお小言を投げられたユリアは、「でもさぁ」と唇を尖らせる。
「エトワール、一番星。一番ってことは、つまり選ばれるのは一人だけでしょ?なのに馬鹿みたいに仲良く班行動してどうするわけ?周りは全員敵なのよ?」
「でも最終日にみんなでエチュードしなきゃいけないじゃん」
「それこそ!私の一人勝ちでしょ」
 流石の私も呆気に取られて数秒固まった。冗談かと思ったが、鼻で笑って言い切った彼女は別段言葉を撤回する様子も付け足す様子もない。本気で自分が一番に選ばれると思っているのだ。もしかしたら協調性も採点ポイントとして考慮されるかもしれないし、チームワークによるパフォーマンスの向上だって見込めるだろう。それらを一切無視して、なお自分が一番輝くと信じている。
 急に呼吸が浅くなり、一段階視界が暗くなった。居心地の悪さを感じてベンチの傍らの花壇に目線を落とす。私にはそんな自信など一ミリもない。
「ねぇ、チヤはどうしてここに来たの?」
「は?どうしてって、ユリアを追って」
「じゃなくて」
 アイビーの葉が花壇からはみ出ている。つる性植物で品種も豊富だが、今見えるアイビーは星型の葉をしている。もしや、学校の名にちなんで星の形にこだわったとか言わないだろうななどとぼんやり考えながら、彼女の鈴のような声を聴く。
「どうしてホシキラに来たの?」
 ホシキラ。私立星煌女子学園の『星煌』をもじってできた呼び名。現実世界に居場所のない私達は、届くはずがないと知りながら、煌めく星に向かって手を伸ばしている。
「ここに通ってる子達は多分住んでる場所も年齢もバラバラでしょ。ただ一つ同じなのは、お星様にお願いしたい望みがあるってこと。チヤは何?」
 名を呼ばれてうっかり顔を上げてしまい、ユリアと目が合った。逃れることは許されない、ひたすらに真っ直ぐな視線だった。だから、仕方なしに口を開く。
「わ、たし、は。特別に、なりたくて」
「特別?具体的には?」
「誰かに、必要とされたいっていうか、私じゃなきゃ駄目、みたいに思われたいというか………愛されたい、っていうか」
 人が決死の思いで吐露したというのに、ユリアはいまいちピンときていない表情で頬杖をついた。
「愛。愛。愛ねぇ。そんなにいいものとも思えないけど」
「じゃあ、そういうユリアはどうなの。そんなに楽しそうなのに、何で死にたいの?」
 班のメンバーとの初めての顔合わせでの自己紹介で、彼女はいとも容易く鮮烈な記憶を私達に刻みつけた。いっそ誇らしげに堂々と胸を張って告げた彼女の願いは、彼女の溌剌とした印象とはかけ離れていた。まだ初対面だった私達はただ度肝を抜かれて受け流すことしか出来なかったが、多少なりとも人となりを知った今なら、もう少し掘り下げることが出来るかもしれない。
 世界に愛されていそうな彼女が、何故死にたいなどという願望を抱いているというのか。
 ユリアは弾みをつけてベンチから立ち上がり、ダンスでも踊るかのような軽やかなステップでくるりと回ってみせる。彼女のスカートが風を受けてふわりと弧を描く。
「誤解しないで。ただ死にたいんじゃなくて、綺麗に死にたいの!若くて可愛い内に死にたいの!無駄に時間を重ねて歳を取って身体が劣化してこの全能感が失われるくらいなら、今を永遠にしたいの!」
 それは、さながら舞台の一場面だった。スポットライトも観客席も何もないのに、彼女の言葉から一挙一動に至るまで、何もかもが見ている者を魅了し惹き付ける。  彼女は一番星にならずとも、既にキラキラと輝いていた。
「ねぇ、シェイクスピアのジュリエットだってそうでしょ?若さ故の勢いで人生を突っ走ってそのまま死んで、美しさを永遠にしたわ。あぁでもね、胸を短剣で貫くのは身体が傷ついちゃうから駄目でしょ。ロミオの毒死も駄目ね。苦しんで喉を掻き毟ってひっどい顔で死んじゃうから」
 私はベンチの傍らに突っ立って、楽しげに語る彼女を眺める。明日の天気をするが如く平然と己の死について語る姿は、異様だった。異様なのに、迷いなく言い切る彼女があまりにも美しくて、どうしても目が離せなかった。
「綺麗に死ぬのってなかなか難しいのよね。首吊りや飛び込みなんてもってのほか、練炭とか睡眠薬もリスクが高いし、ほんと人間の身体って面倒くさい。だからホシキラでエトワールになって、眠り姫みたいに綺麗に死ねますように!ってお願いするの」
 いいでしょ?そう言って悪戯っぽく片目を瞑ってみせたユリアに、私は頷くことも首を横に振ることも出来なかった。その願いはあまりにも刹那的で、倒錯的で。だけど、混じり気のない純を纏って眩しく輝いている彼女はやはりどこまでも綺麗で。この一瞬を切り取るためには確かにそれが正解なのだと思えさえしそうで。結局、他の班のメンバーが痺れを切らして迎えに来るまで、気の利いた言葉のひとつも返せなかったのだった。



 さて、今宵のお話はここでおしまい。
続きは、また明日の月がのぼる頃に。


          ★


 私の母親は、思いもかけず私を身篭ってしまったから仕方なく結婚したらしい。父親もまた然り、「結婚して責任を取っただけでもありがたいと思え」が口癖だ。毎日のように喧嘩をしては早く離婚したいと喚く。いっそ勝手に離婚でも何でもすればいいのにと思うのだが、私が成人になるまでは離婚しないという取り決めをしているそうだ。悲しきかな、望んで産まれたわけでもないのに、私の存在が彼らを苦しめているらしい。滑稽な話である。
 だから、私は家庭内に愛を求めるのは早々に諦めた。今日も夜な夜な玄関の扉を開けて、愛を探しにいく。とはいえ最近はこの電脳世界の学園に通っているため、比較的健全な日々を送っていることになる。
「ねぇねぇ。『チヤ』って名前はどういう由来なの?」
 自習時間中に、ユリアが前の席からこちらの机に身を乗り出して尋ねてきた。この校舎は広いので、自習ともなれば皆散り散りになって好きなように過ごす。そういうわけで、教室には私とユリアの二人きりだった。丸くてくりっとした瞳の中に、冴えない表情の黒髪の少女が映っている。
 私は読んでいた本を閉じて、唐突な彼女の質問に答えた。
「千の夜って書いてチヤ」
「あっ!千夜一夜物語?」
「そう。好きだから」
 私が手にしていた本は、まさに千夜一夜物語だった。この電脳世界の仕組みはよく分からないが、ライブラリールームなる部屋のレファレンスカウンターの端末で検索したら借りることが出来た。借りた本は私が現実世界で読んでいたそれと寸分違わぬ装丁である。相違点を上げるのならば、こちらの本の方が端が擦り切れておらず綺麗なところだ。
 私の答えに納得顔のユリアだったが、やがて頭を傾げて思案げに眉をひそめた。
「にしても、千夜一夜物語なんて言うくらいなんだから、てっきり一〇〇一個の話があるんだって思ってたけど。元本だとその半分もないんでしょ?詐欺よね」
「まぁ……千っていうのは元々『たくさんある』って意味での千だったんじゃないの」
 千夜一夜物語は、日本語だとアラビアンナイトとも訳される。かつてのペルシャ王が妻の不貞を機に女性不信となり、毎晩街から娘を連れてきては朝には殺してしまうというところから話は始まる。町の娘が減って困っていると、大臣の娘のシェヘラザードが王の相手をすると名乗りを上げるのだ。シェヘラザードは王に殺されぬように毎晩物語を語り、「続きはまた明日」と王の気を引き続ける。この夜伽で語られる物語こそ、千夜一夜物語の逸話の数々というわけだ。ポピュラーなところで言えば、アラジンやアリババ、シンドバッドもこの千夜一夜物語のひとつである。
「ま、ぶっちゃけると名前の由来とかそんな大層なもんないよ。本名もじっただけ。ユリアは?どういう名前の付け方したの?」
「んー私?ジュリエットをドイツ系の名前にしたらユリアなんだよね」
「へぇ。そういえばこの前もロミオとジュリエットの話してたじゃんね」
「そう!好きなのジュリエット!でもそのままだとちょっとストレート過ぎるかなーって思って」
 特に何になるわけでもない雑談をしていると、チャイムの音が校舎内に鳴り響いた。それにつられて教室の時計を見る。
「あー、自習時間終わりだ。次の授業って声楽だっけ?しんどいな……」
 本を机の中にしまって次の授業の準備をしていると、ユリアが長い睫毛をパチパチと揺らしながら首を横に傾けた。
「ねぇ、チヤってもしかして関西人?」
「え。何で分かるの?イントネーションおかしかった?」
「ううん。でも『しんどい』って関西弁だからさ。ちなみに私も関西の花の女子高生」
「うわ一緒だ」
「あは。なら何処かで出逢ったことあるかもね、私達」
「いや、ないよ。貴女みたいな強烈にキラキラしてる子、知らないもん」
 何気なく言ってから、割と恥ずかしい言葉を口にしたと気付いて勢いよく顔を上げた。茶化されるかと思ったが、ユリアは存外静かに私を見据えていた。珍しくその煌めく瞳に影を潜ませてさえいて、その視線の冷たさに僅かに身を引く。彼女は無表情の上に形のいい唇で薄く弧を描いて「あは」と笑ってみせた。
「確かにチヤみたいな子は周りにはいないなぁ。私に寄ってくるのはいつも気持ち悪ーい男達ばっかり。あいつら勝手に薄っぺらい愛を与えてくるくせに私が返さないと『お高く止まった勘違い女』だって!馬鹿みたい」
 それは天真爛漫なユリアが見せた初めての負の感情だった。されど私は彼女を慰める言葉のひとつも持ち得ない。それどころか勝手に己の境遇と比較して苦しくなって、無意識に自身の体を抱き締める。
「……私はそんな薄っぺらい愛だって、欲しい」
 抑えきれなかった感情が喉の奥から漏れて、静かな教室の空気を揺らした。あまりにも小さな揺らぎだったが、二人きりの教室を満たすには充分だった。
 ユリアの目が細められて、私を貫く。変な汗がじわりと出てくる。どうかそれ以上見透かさないでほしい。そんな弱々しい祈りも虚しく、ユリアは持ち前の勘の良さで私を暴く。
「チヤ、もしかして体売ってる?」
「!」
 彼女の眩い輝きは、いとも容易く私の醜さを照らしてしまうのだ。そんなわけないじゃん、と笑って誤魔化せたらよかったが、一度ギクリと強張った姿を見せてしまった後ではそれも叶わないだろう。唇を噛み締めて虚勢を張ることしか出来ない。
「だ、だったら何?別にいいでしょ、ユリアには関係な──」
 パンッという乾いた音が響いた。ユリアが私の左の頬を叩いた音だった。そこまで痛いわけではなかったが、驚いて反射的に頬を押さえる。
「自分を大事にしないやつは世界で一番嫌い」
 ユリアは振り抜いた手をそのまま胸の前で握り、私を睨みつけた。それさえも一枚の絵のように様になっていて、ずるい。私が血反吐を吐きながらやっとのことで掴むものを、彼女は瞬き一つで手に入れてしまう。
 急に胸の底の感情が爆発して、私は勢いよく席から立ち上がった。椅子が嫌な音を立てたが、そんなことはどうでもいい。
「そりゃ貴女みたいに誰にでも愛される人は綺麗なままでも生きていけるでしょうよ!でもあんたなんか産まれてこなきゃ良かったのに、なんて呪いの言葉をかけられ続けて!どうやって生きていけばいい!?どうやって私が生きていてもいい理由を証明すればいい!?」
 愛されなければ、誰かの特別でなければ、人という殻をかぶって生きるにはあまりにも惨めだ。
「うちは夜に家を出てもなーんも言われないからさ!外で会う人達はみんなベッドの中では君が一番だよ、愛してるよ、って言ってくれるしさぁ!」
 無価値な存在として世界に埋もれぬように。それでなんとか帳尻を合わせて生きていけるように。私は己の体を差し出すしかないのだ。
 流石のユリアも急に激情に駆られた私に面食らって黙って聞いていたが、やがて静かに口を開いた。
「そうやって毎晩自分をすり減らして生きてきたの」
 私とは対照的に冷静な様子が無性に頭にきて、震える拳を握り締めた。これ以上何もかも知ったような顔で私を見るな。その瞳で見透かすな。
「ユリアみたいに何もしないでも愛されなんかしないから!愛を得るには対価がいるから!仕方ないじゃん!私の気持ちなんか分からないくせに口出ししないでよ!」
 気付けば、私は教室を飛び出していた。これこそまさに負け犬の遠吠えだなと思い至り、自嘲気味に笑う。しばらく出鱈目に走っていたが、ユリアが追いかけてきていないことを確認して踊り場で足を止める。
 どこか作り物めいたよそよそしい雰囲気の校舎は、私の乱れた呼吸を吸い込んでなおも沈黙を貫いている。
 つくづくこの学園のことがよく分からない。どうして私はこんな得体の知れない場所に毎晩訪れるのだろう。仮にこの世界の創設者に誰かの望みを叶えるだけの力があったとして、どうして女子だけ集めるというのか。あまつさえ学園生活を強いるのか。演劇をさせるのか。ただの不幸な女子高生好きの変態というわけでなければ、何かしら理由があるはずだ。
 嗚呼、でもその真相を解くのはけっして私ではない。何せ私はただの脇役だから。
 乱れた髪を手櫛で整えていると誰かが階段を降りてくる足音がして、体ごとそちらに向き直る。すると「あら」という明るい声とともに一人の女性生徒が姿を現した。
「こんな所でどうしたの?もうすぐ授業の時間よ?」
 絹のような黒髪をさらりと涼しげに背中で揺らして、その人は友好的な笑顔を私に投げかけている。
「Dの四班のハナさん、だっけ」
「えぇ、そうよ。違う班なのによく覚えてくれていたわね、チヤさん」
 ハナさんは残りの段を降りきって私の隣に並んだ。すらりとした四肢が印象的な人だったから、なんとなく覚えていた。
「どうしたの?なんだか浮かない顔をしているわね」
「あー……実は、同じ班の子に八つ当たりをしちゃって」
「あらまぁ」
 大げさに目を丸くして口に手を添える姿がお節介な近所のおばちゃんみたいで、ほんの少し笑いそうになった。そこまで親しくもない人にするような話でもないのに、彼女の朗らかな雰囲気につられてしまったのは否めない。
「でもいいじゃない。それって現実の世界では誰にも言えなかったことなんでしょう?八つ当たり出来るくらい仲の良い子ができてよかったわね」
「めちゃくちゃ前向きだね」
「そりゃあそうよ。やっとの思いでこの学園に逃げてきたっていうのに、ここでも逃げ続けてどうするの?当たって砕けろ、ってね!なんたってここではみんな主役なんだから!」
 彼女が嬉しそうに笑うだけで、殺風景な踊り場がパッと明るくなる。まるで花が咲いたみたいだ。彼女もユリアと同じく自然と人を惹きつける人らしい。ハナさんはひらりとスカートを翻し、階段に足をかけた。
「そろそろ行かなくちゃ。この後メインホールで班のみんなとエチュードの練習をするの!じゃあごきげんようチヤさん!」
 手を振り軽やかな足取りで階段を駆け下りていく彼女の背中を何とはなしに見守って、ポツリと呟く。
「全員が主役なんてありえないでしょ」
 どんな舞台だってそう。主役がいれば、脇役もいる。 彼女の言葉は所詮綺麗事でしかない。
 一気に空気が冷えた踊り場で、私は蹲って顔を腕の中に埋めた。


 さて、今宵のお話はここでおしまい。
続きは、また明日の月がのぼる頃に──と言いたいところだったけれど、どうにも今日は様子が違いピリオドを打てなかった。

「残念なお知らせです。共に学び共に成長してきた仲間の一人が、お亡くなりになりました」

 私達の儚き夜は、延長戦に突入した。
          ★


 一人の生徒がこの星煌学園で死んだ。場所はメインホール。自殺か他殺かは不明。後者だった場合は犯人を捜す必要があるので学園長直々にログアウト禁止令が出された。代わりに今から一週間合宿を行う。合宿最終日にエトワールを決める。
 イヌビワ先生が淡々と事務的に語る。講堂に集められた生徒達は、突然の展開に追いつけずに茫然としていた。それでも緊急集会は粛々と進められ、質疑応答や新入生の紹介が終わってから解散の流れとなった。
 どういう原理なのかは知らないが、この電脳世界の一日は現実世界での一時間なのだそうだ。つまり一週間合宿をしても、今までの一時間に七時間が追加されただけ。ほんの少し寝坊をする程度ではあるものの、理由が理由だけにリアクションに困る。
 まだ動揺冷めやらぬ中、皆はどよめきながら講堂を後にする。教室に今後のカリキュラムが書かれたプリントがあるらしいから、とりあえずはそれを取りに行かねばならぬだろう。
「な、なんか大変な事になったね。Dの四班の誰かが死んだらしいけど、誰なんだろうね」
 自然と班単位で集まっていたので、私の隣にはユリアがいた。八つ当たりしてそれっきりだったから多少の気まずさはあったが、他の班員はユリアのことを嫌って先に行ってしまうものだから、やむを得ない。
 ユリアは緊急集会の間中じっと何かを考え込むようにして言葉を発さずにいた。だが人気のなくなった廊下でおもむろに沈黙を破り私に話しかけた。
「ねぇチヤ。さっきは大嫌いなんて言ったけどね。私はチヤのことが好きよ」
「は、」
「ご覧の通り私は可愛い上にこの性格だから同性には嫌われてばっかりなんだけど、チヤはどうしてか当たり前みたいに私の傍から離れないでいてくれたでしょ。別に一人でも問題はないけど、それはちょっとだけ嬉しかった。だから、チヤは私の特別」
ドクンと心臓がいつもより大きく脈打つ。彼女の私にだけ向けられた美しい笑みに目を奪われ、思わず立ち止まる。
「特、別」
「そう、特別。こんな美少女の特別なんて光栄でしょ」
 私に向かって手を差し出したユリアを見つめる。窓から差し込む夕暮れの光が彼女の輪郭を淡く溶かす。視界が飽和して爆ぜそうだ。それでも彼女から目を離せない。
 ユリア。どこまでも傲慢で、身勝手で、独善的。私がずっと欲しかったものを、こんなに無造作に与えてくる。でも、光を背負い自信満々に笑ってみせる彼女は相変わらず女神みたいに美しくて、私は導かれるままにその華奢な手を取る。
「ふは、何それ。何でそんなにドヤ顔なの」
 心が満ち足りるのと比例して、薄ら寒い恐怖が頭を擡げる。この心地よさに身を沈めるのは嫌だな、怖いな。
 どうせこの夢から覚めたら貴女は傍にいないというのに。


          ★


 合宿の一週間はあっという間だった。これといった事件が起こるわけでもなく、ユリアと他の班員の折り合いが悪いのも含めていつも通りだった。結局Dの四班の誰かを殺した犯人が分からないまま、合宿最終日の発表会の幕が開く。
 私は観客席から舞台の上でエチュードを披露する生徒達をぼんやり眺める。エトワールになってもならなくても、これで星煌学園での生活は終わりだ。
否、エトワールになんかなれるはずもないことは私自身が一番よく分かっていた。正真正銘、私の夢はこれで終わり。そう思うと、胸が見えない鎖に締めつけられたかのようになって息苦しくなる。
 隣に座って姿勢よく壇上を見つめるユリアからは何の感情も伝わってこない。その横顔は作り物のように精巧に整っているのだが、どこか色彩に欠けているように感じた。
 ユリアならエトワールになれるだろう。そうすれば、彼女は綺麗なまま死ねるのだろうか。世界の汚さなんて全部全部笑い飛ばして逝く彼女はきっと想像を絶するほど美しいのだろう。
「続いて、Dの四班の発表です」
 マイクを通したイヌビワ先生の声がメインホールに響き渡る。観客席が一瞬ざわりと揺れたが、先生の「静粛に」という声で場内が水を打ったようになる。
 Dの四班のエチュードの配役は、シンデレラ、眠り姫、白雪姫、ヘンデル、グレーテルだった。全員がそれぞれに朗々と語る姿を見ながら、口の中で言葉を転がす。
「……みんな、ここでは主役」
 誰かの台詞が記憶の片隅でチラついては手の届かない所へ逃げていく。誰の言葉だっただろうか。聞こえはいいけれど、やっぱり舞台を見ている観客の私はやはり脇役でしかないじゃないか。
 その時、ホールが下から突き上げられるように大きく揺れた。咄嗟に椅子から腰を浮かせる間にも揺れは続き、会場のあちらこちらから悲鳴や戸惑いの声が上がる。舞台の上にいた五人もエチュードを中断して目を白黒させている。
『まさかこの世界ごと終わるの!?』
『こんなん聞いてへんけど!?』
『け、結局これはどうなるんですか!?まだエチュードは続行なんですか!?』
 ホールだけでなく、この世界自体がぐらつき存続が覚束無くなっていることを、アバターを通してこの世界と一体化している私達には本能的に感じ取れた。プログラム上有り得ないとされる一週間前の事件を始まりに、この世界は緩やかに終幕に向かっていたのだ。恐らく合宿期間を一週間としたのも、それがこの世界のタイムリミットだったからだろう。ついに終わるのかと半ば諦念に満ちた気持ちを抱いていると、白雪姫を演じていた眼鏡の生徒が叫んだ。
『現実になんか戻りたくない!また目が覚めたら死にたいと思う毎日が待ってる、私は幸せになりたいわけじゃない、ただ、死にたいなんてもう思いたくない!』
 悲痛な叫びは、切実なのにどこにも届かない。私だけでなく皆同じなのだ。当たり前に己が尊重される世界で生きることを許されたいだけなのだ。──ただ一人を除いては。
「チヤ。もう私達のエチュードの番まで持ちそうにないよ、この世界」
 その一人である美しい少女は、私の横でスっと立ち上がる。そのまま私の手首を掴んだかと思うと混乱に乗じて人の波を抜け、誰にも気付かれることなくホールをするりと出てしまった。
「え、ちょ、ちょっとユリア、どこに行くの?」
 ホールの外の揺れは先ほどよりも酷い。それでも逡巡せずスタスタと歩いていたユリアは、やがて廊下の真ん中で止まった。前を向いたままの彼女の表情は窺い知れない。
「私、思ったんだけどね」
「うん?」
「Dの四班の誰か、この世界で死んだんでしょ?」
「あぁ、うん。確か自殺だったって。名前は思い出せないけど現実世界でも死が確認され、た……って、まさか」
「あは、勘がいいじゃない」
 彼女の癖である笑い方が、その実笑っていないことに気付いたのはいつだったか。口角を上げて笑顔を作っているが、笑ってはいなかった。
「エトワールにならなくたって、ここで死んだら現実世界でも綺麗に死ねるんじゃない?イヌビワ先生だって緊急集会でそれっぽいこと言ってたし。一番になって願いを勝ち取るつもりだったけど、もうそれも難しそうだから最終手段を取ろうって話」
 私の手を掴んだままくるりと振り向いた彼女に、私は息を飲む。
「ねぇ、チヤ。私を殺してよ」
  それは砂糖を煮詰めたように甘く、咲き始めの薔薇のように艶やかな笑みだった。貼り付けた偽物ではなく、本物の笑顔だった。ゾッとするくらい美しくて、今にも崩れそうな世界の中にいるというのも忘れて彼女に釘付けになる。
「何で、私が」
「誰かの特別になりたいんでしょう?私を殺してくれたら、少なくとも私にとってチヤはとっても特別な存在になると思わない?」
 ユリアが震える私の手を誘導して己の首にあてがう。細くて白い首は、ほんの少し力を入れただけで折れてしまいそうだった。
 私が彼女の美しさを永遠に出来る。世界に愛された彼女の特別になれる。
 心臓が早鐘を打ち、今にも口から飛び出そうだ。私の冷たい指先とは裏腹にユリアの首は温かった。
「チヤ、急いで」
 歌うように紡がれる言葉がやけに遠くから聞こえた気がして、一度深く息を吸う。それから瞼を強く閉じて、開く。
「出来ない」
 私は添えられたユリアの手を緩やかに拒絶して、首から手を離した。
「私にユリアは殺せないよ」
 初めて私を特別扱いしてくれた彼女を失いたくない。例え現実世界に戻れば全て無くなるとしても、生きていてほしい。その美貌が時間とともに目減りしていくとしても、永遠じゃなくとも、それでも。きっと彼女の魂は世界一美しいのだから。
 唇を噛み締め俯く私の耳に、ユリアの溜息が届いた。
「そう。じゃあ自分で死ぬしかないか」
「え」
 あまりも軽い口調に一瞬理解が出来なかったが、ユリアは気にせず廊下を歩き始める。
「あーあ。やっぱり飛び降りが一番確実かな?現実だと地面に体がめり込んで悲惨なことになるらしいけど、こっちの世界でも痛いのかな」
 そうだ、私は何を思い上がっていたのだ。いくら私ごときが拒否したって彼女の願いは変わらない。それが他殺か自殺かだけの話で、彼女は既にこの学園に来た時から己の死を選び終わっているのだ。
 一気に血の気が引くのを感じながら、階段の方へ進もうとする彼女の腕を掴んで引き止める。
「だ、駄目!やめて!」
「離してよ、時間がないんだから」
「やだ離さない!ユリアが死ぬのなんて絶対に嫌だ!」
 こんなか細い腕のどこに力があるのかと思うくらい、ユリアの体はびくともしなかった。足を止めてくれてほっとしたのも束の間、不意にユリアが体ごと私にぶつかってきて二人して廊下の床に倒れこむ。突然の行動の理由を考えるよりも前に、私に馬乗りになった彼女の両手が私の首を掴む。
「うっ……!」
「私を殺してくれる強さがあれば、きっと現実でも生きていけると思ったけれど」
 ぐっと手に力が込められて満足に呼吸が出来ずに藻掻く。私を見下ろすその瞳は思いのほか凪いでいて、真摯な色を孕んでいた。
「私より、あんたの方こそ死んだ方がいいわ。現実に戻って何も出来ずに息を潜めて生きることしか出来ないのなら、今この夢を永遠にした方が良くない?」
「な、にを」
「かわいそうなシェヘラザード。毎晩毎晩、命懸けで夜を越えないといけないなんて」
 さらりと、ユリアの柔らかい髪が私の頬を撫でた。
 チヤ。千の夜。千夜一夜物語。ハンドルネームの話をした時に有耶無耶にしたままだったけれど、彼女はとっくに私がこの物語を好きな理由に気付いていたのだろう。殺されない為に夜毎必死に足掻くシェヘラザードは、私と似ていた。
「ねぇチヤ。愛って、こういうことよ。無責任に上っ面の言葉を撫でるだけのものなんて、クソくらえよ。私は私の意思で、私の責任で、私の愛で、あんたを殺すわ」
 ユリアの指が首に喰い込む。だけどその力強さが嘘みたいに彼女は可憐に微笑む。
「さようなら、不器用で優しいチヤ。ロミオを追うジュリエットのように死ねたら最高だけど、生憎もう時間がなさそうね。仕方がないからもう少し生きて、綺麗に死ぬ方法をきっと見つけてみせるわ。どうか星になって空で見守っていてね」
 こんなガタガタと揺れる世界の片隅の何の変哲もない殺風景な廊下で、なおも彼女だけが美しい。アンバランス過ぎて笑ってしまいそうだ。彼女のような人こそ、物語の主人公になりうるのだろう。
「星、」
 奇しくもこの学園の掲げる目標である。『命を燃やして一番星になる』というのははなから現実世界から消えることを指していたのではないだろうか。ここで頑張れば頑張るほど現実の己と乖離してやがて死に至る、とか。各々の理想通りになる世界とやらを準備するよりは荒唐無稽な話ではないはずだ。それなら私もある意味エトワールになれつつあるかもしれない。しかし私の頭上には、ユリアという紛れもないエトワールがいる。今も輝き続けている。
 もう、いいか。
 私は本能的に抵抗していた手を床へと投げ出した。主人公に殺される役割なら、脇役としては出世した方だ。


 今宵のお話はここで終わり。続きはもうない。

 私は、きっと。
 千の夜を越えられない。


-終-






バイプレイヤーの独白 
キャスト     
チヤ…大由利 杏奈
ユリア…知北 樹璃