新しい家っていうのはなんていうかドキドキもするしワクワクもするし、それと同じくらい面倒だなと、しみじみ思った。
「新しい鍵はこれね~」
さっき大家さんこと“メンダコさん“に渡された小さな鍵を見つめる。なくさないように後でキーホルダーをつけよう。なんで大家さんがメンダコさんと呼ばれてるのかはとりあえずスルーするとして、今は目の間のダンボールが山積みになった部屋と向き合おう。
なんて思いながらダンボールを空けていく。
このメンダコアパートに私が引っ越してきたのは、単純な理由だった。
『あ、さとちゃん?今大丈夫?』
「うん、作業しながらで良ければ」
『あんがと~。んで話だけどさ、またイラスト依頼したいんだけど良い?』
「うん。今回はどんなの?」
『今回はね~、いつもと違って落ち着いた感じ!春!桜!だっけな?確かそんな感じの曲』
「桜か~」
『華やかっていうよりは、クール?』
「春曲なのにクールか」
『そ!たまらん~』
通話をスピーカーで流しながらどんどんと荷物を出していく。頭の中でふんわりと桜をイメージしては、クールか……と打ち消した。
通話相手である友人はVTuberと呼ばれるものを生業にしていて、私はそのイラストを担当している。最初は友達として協力していたけど、いつの間にか彼女は有名になって関係は仕事相手になった。
『また詳しくはマネージャーから連絡いくと思うわ。あと、この前書いてもらったの今日公開だから!超楽しみ!』
「マジか~、そりゃ楽しみだね」
『うん!マジでさとちゃん様様!って訳で、またね~』
プツリ。切れた通話。訪れる静寂を肌で感じては大きく息を吸い込む。そのままゴロンと横になってしまえば、まだ見慣れない天井が私を見つめていた。
……一人。紛れもなく、一人。私がここに引っ越した理由はたった一つ、一人になりたかったから。
私の人生を一言で表すならば『なんとなく』に限る。よくある選択肢だってどっちでもよかったし、なんとなく楽な生き方であればいいなくらいのこだわりしかなかった。実際、裕福でもなく貧乏でもない普通の幸せな家庭で育ち、成績もそこそこ、友好関係もそこそこの人生。ただ唯一好きだなと強く思えた事はイラストを書く事。結果的に運良くその道で進めることになり安心しつつも、そう上手くいかない毎日にぼんやりとうんざりしていた。
なんていうか、刺激のない毎日なのだ。
それを自分が望んだから仕方ないけど、何かが決定的に違う。声をあげられる人になってみたいけど到底無理で、だからといってずっと流される日々に殺されるのは嫌で。
色々悩んだ末に、一人暮らしを決意した。
決意してからはトントン拍子で世界が変わっていくから、ほんの少しだけ非日常で楽しかった。でもいざ引っ越し終えたらこのザマだ。楽しいと同じくらいめんどくさい。結局はこういう思考だから刺激のない毎日だってのにね。
ゆっくり起き上がって、ふと窓を開けてみる。空気は少しの温かさを抱きながらもパリッと乾いていて、吸い込むとスーッと鼻の奥の方まで届く。三階の角部屋から下を見下ろせば、空を見上げている大家さんが見えた。それにつられて空を見ると、これまた綺麗な青空で。雲ひとつない晴天とはこの事か。と一人感嘆する。
「佐藤さ~ん」
どこかから声が聞こえて視線を下に戻せば、どうやら大家さん__メンダコさんがこちらに向かってゆるゆると手を振っていて、とりあえずぎこちないものの振り返す。するとメンダコさんは振っていた手を口元にあてて、これまたゆるゆると話しかけてきた。
「今日は~クラゲ商店街が賑やかだよ~」
「しょ、商店街ですかー?」
なんとか自分も声を張って聞き返すと、メンダコさんは嬉しそうに頷く。
「お暇つぶしに、どうぞ~」
そして、言い終えたら満足したのか、ひらひらとこちらに手を振りながらアパートの中に入ってしまった。会話と呼ぶにはあまりにもキャッチボールが少ない気もするが、多分もう終わったんだろう。言葉通りキョトンとしばらくしたあと、窓をパタンと閉める。
無音の部屋に響く、外の鳥の声や車の音。思い立ってもう一度窓を開ければ、それらは鮮明になる。ぼんやりと香っていた『何か』も、鮮明になる。
「コロッケ……?」
何か揚げ物特有の香ばしくて堪らない匂いがどこからかしていた。メンダコさんが言ってた商店街からだろうか。
今度こそ窓を閉めてしっかりと鍵も閉める。それから軽く身支度をして外に出れば、さっきよりももっともっと新鮮な空気が私を満たした。
ゆるゆるゆるりと。匂いを辿りながら街を歩く。お世辞にも都会とは言えないけれど、代わりに緑の多い場所。まだ木々達は蕾だけれど、やがて来るであろう春に向けて準備をしているのが見て取れてなんだか嬉しくなる。
外の景色をこんなにゆっくりと見るのはどれくらいぶりなんだろう。いつも何かに追われていたり逃げていたりしたから、こんな清々しい気持ちで見れてる今がとてつもなく幸せに思える。
引っ越して、よかった。
改めてそう思いながら、アパートから本当に近かったクラゲ商店街らしき場所に辿り着く。下町感溢れるその風貌に思わず「おぉ……」と声が出た。そのままアーチをくぐれば、晩御飯の時間が近づいてきてるからなのか活気のある声が色んな所から聞こえてくる。
魚屋に、八百屋に、洋服屋。雑貨屋に、精肉屋に、饅頭屋。どれも規模は大きくないものの、どこも生き生きとしているように見えた。ただやっぱりあまり大きな商店街じゃないからすぐに端に着いたようで、その端っこにある奇妙な扉の喫茶店に私は吸い寄せられていく。そしてドアノブに手をかけようとしたタイミングで、ふと強烈な香りがすることに気付いた。それにつられるように顔を右に向ければどうやらそこは揚げ物屋のようで、ちょうど揚がりたてらしいコロッケが続々と姿を現していた。
ごくり。と。思わず唾を飲み込む。それとほぼ同時に揚げ物屋の店員らしきオジさんが話しかけてくる。
「食うか?」
と一言。目が合えば何も言えなくて、脳内では必死に『今財布にいくらある?』『こういう店って電子マネー使える?』なんて考えながらも、吸い寄せられるように揚げ物屋の前まで足が動いた。
「食うか?」
ともう一度。それに対するたった一言『はい』が言えなくて、喉の奥がきゅっと閉まる。そのうちだらだらと冷や汗らしきものが私の額に滲み出て、誰か助けてくれ~!と目をぎゅっと瞑れば、聞こえてきたのは助けに応じた神の声……ではなく、カサカサという紙が動く音だった。
はて?と目を開けると、店員のオジさんが私に向かって紙袋に入ったコロッケを差し出していて。これは……?どういう……?と途方に暮れていると、オジさんが「ほら」と紙袋をこちらに放るもんだから、慌ててキャッチしてみせた。コロッケは紙袋に包まれていても熱すぎて、思わず「あちち……」と片手ずつで何度も入れ替えて持つ。
「あの、いくらですか?」
「いらんいらん」
「えっ、でも」
「そんな食べたそうな目で見られちゃあコロッケもうずうずするだろうよ」
「いやいや……そんな……でも……」
「この町は初めてか?」
「あ、はい!今日引っ越してきました!」
「ならこれは引越し祝いだな」
ニカッと笑ったオジさんの後ろから光が差し込んでみえる。まぁそれはあくまで私の妄想なんだけど、実際夕暮れも終わりがけで商店街の灯りがチラホラ着き始めた。
もう、帰る時間だ。
目の前のコロッケを一口食べて、溢れ出る肉汁をじゅっと吸い込む。口の中が熱すぎてえげつないけど、それ以上にじゃがいものホクホクさやひき肉のジューシーさがたまらなかった。衣のサクサク具合も揚げたてだからか格別で、どんどんと食べてしまう。
最終的に全部平らげて紙袋になると、オジさんが「ん」と紙袋を回収してくれた。だから私はそのタイミングで「ありがとうございました!めちゃくちゃ美味しかったです!」と自分の中では比較的大きめの声で叫んだ。オジさんは少し驚いた後、すぐにまたニカッと笑ってくれた。
どんな人であれ、お礼や感想をストレートに言われたら嬉しいと思うから。
少なくとも、私はそうだから。
この気持ちが百パーセント伝わってればいいなと思いつつ、「また来ます、今度はちゃんと買いに来ます!」と言って揚げ物屋を後にする。景色はすっかり夜に染まり、初めての土地の夜は不安になるなぁとしみじみ感じた。
夜、夜。……夜。
『今回はね~、いつもと違って落ち着いた感じ!春!桜!だっけな?確かそんな感じの曲!華やかっていうよりは、クール?』
友人の言葉を脳内で反復させては一つの案をもわもわと具体化させていく。
「夜桜……クールだよね」
そのままいくつか構図を想像して、急いでスマホのメモ機能にもメモを残す。するとちょうどそのタイミングでアプリの通知が届いた。どうやら昼間言っていたものがSNSで公開されたみたいで、たくさんの反応が生まれている。
『え、今回のパステルの雰囲気超良くない!?』
『トルちゃんめちゃかわゆ』
『書き下ろし感謝寿命伸びた』
『衣装天才~~~~~~』
たくさんの文字に、思わず頬が緩んだ。
あぁ、たまらないなぁ。これの為に頑張ってると言っても過言じゃない。それくらい、嬉しいなぁ。
スマホの画面をオフにして、また上着のポケットに入れる。また歩みを進めれば、先程よりも軽やかな体に笑みが深まった。そしてメンダコアパートに帰ってくる。三階まで駆け上がって、虚しくも息が切れたからしばらくその場で息を整えて、それからゆっくりと301と書かれたドアの前に立った。大切なものを扱うみたいに、そろりと鍵を差し込む。ガチャリと開けて、部屋に入る。そのまま荷物を置いてゴロンと床に寝転がった。
まだ、見慣れない天井。これからたくさんの思いを抱いてはこの天井を眺める事になるんだろう。
寝転んだら突然何もかもが面倒になってしまったけれど、とりあえずこの言葉だけはきちんと言うことにしよう。
「ただいま」
その一言を。