自分の世界にしっかり立っていないと、あっという間に崩れ落ちてしまうことを私![]()
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は知っている。一条という苗字に恥じない生き方をしないと、自分の世界を地盤そのものから壊されることを私は知っている。前に進み続けないと、今立っている場所が無くなっていくことを私は知っている。
「それではまた明日」
「さようなら~」
教壇から先生が降りて教室から出ていき、生徒達が騒ぎ出す。隣の席の快活な女子生徒が「今日も行く~?」と誰かに話しかけた。この女子生徒は、この後隣町のファミリーレストランに行くのだろう。近くにもあるのに、なぜわざわざ隣町まで行くのか。一度だけ聞いてみたことがあるけれど、求めていた答えはなかった。
人間は無駄な事も大事なのだと教師は言う。無駄な事にこそ、成長のきっかけや幸せがあるのだと言う。そうだとしたら、この世の中はどんなに成長のきっかけや幸せが眠っているのだろう。結局努力しない人間には、それ相応の毎日が待っているだけなのに。人間は無駄な事も大事だと言っているその時間が、まず無駄なのに。
帰宅しようと鞄に教科書を詰めていると、鞄の奥にある携帯がメールの受信を知らせていた。手に取り確認すると『今朝は遅刻したようですね。怠慢は敵です。もっと一条らしい振る舞いをしてください。次そのような事があった場合は……』
「……」
呼吸を止めて読んでいたらしく、メールの最後の文まで読み終えた途端に大きく息が吐き出された。体にとてつもなく重い鉛玉が乗っかったように、動けなくなる。
一条家に養子として迎えられたのは、小学一年生になる直前だった。元々児童養護施設にいた私にとって、外の世界は大層素晴らしいものだと思っていた。けれど外に出た途端、私に課せられたのは小学校受験というものだった。毎日の勉強と、対策の為の話し合いや訓練。
なるほどこれが外の世界か。と、その時の私は思った。
何かが違うと気づいたのは高校の時。中学校はエスカレーター式で入学したけれど、高校は近くの公立高校に行けと言われ、今までとは偏差値が段違いに低いところに行かされた。なんでも校長先生とお付き合いがあるらしい。だから高校はそつなくこなし、自宅で大学受験に向けての勉強をしていた。
高校生活は驚きの連続だった。みんな休み時間に自習なんてしないし、自習時間でさえ勉強をしようとはしない。自由な校風とは聞いていたが、あまりにも自由すぎないか。
けれど異端なのはどうやら私の方らしかった。
「勉強三昧で楽しいの?」
いいえ、楽しくはありません。
「一条ってことは将来安泰じゃん!」
いいえ、そんなことはありません。少しの油断も許されない世界なのです。
「なんか一条さんってやばいよね、近寄んない方がいいよ」
何がやばいのでしょうか。教えてくださらないかしら?
「何が楽しくて生きてんだろうね」
……私は何が楽しくて、生きているのかしら。
ハッと意識を戻すと、教室には私を含め数人しか残っていなかった。早く帰って今日の分の勉強をしなければいけない。手元の携帯に視線を落とす。この小さな箱に脅えてる私って一体。
「あぁ……」
思わず出た声は、大層情けなくて。持っていた携帯を机の奥に置くと、私はそのまま鞄を閉めて教室を後にした。
そのまま向かうのはこの街のファミリーレストラン。扉前まで来てから少しだけ躊躇ったけれど、一度足を進めたらなんてことはなくて。イマイチ作法はわからなくても何とかなってしまった事に、私は人生で初めて手放しでの達成感を得た。
今までは何か一つ達成したって、この後更に頑張らなきゃいけない事を理解していたから。だから、むしろ達成する度に苦しみを得ていた気がする。
「では注文繰り返します。季節の煮込みハンバーグ、Aセット、ドリンクバー付き。ドリンクバーはあちらの……」
店員がメニューを繰り返す。それから丁寧にドリンクバーの説明をした後去っていった。言われた通りにドリンクカウンターに行って、バイキングのようなものなのかしら、とオレンジジュースをコップにいれる。
自分で何もかも用意をするのは面倒だけど、悪くないかもしれない。
「……なんてね」
運ばれてきた煮込みハンバーグはチープだったけれど、なんとなく懐かしい気がした。
いつの間にか日は落ちていて、夜が訪れていた。ファミレスを出てから街を探索したけれど、いつも一条の家が言う「下品な街」はどこにも見当たらなくて。むしろ、どこに行っても色んな人がいて興味深かった。
このままどこに行こう。家に帰る選択肢はない。家の人に見つかるまで、自由を手にしたままでいたい。
そうして歩き続けると、やがて川沿いの土手に出る。その道の先に、蹲っている人を発見した。
「あの……」
思わず近寄って声をかける。よくよく見ると、その人はまだ同い年くらいの女の子だった。
「大丈夫でしょうか?」
「……」
私を見上げた女の子が、ポカンと口を開けて固まる。私に何かついてるかしら、と自分で自分の頬を触れば、女の子は「お客様……」と小さく呟いた。
「お客様?」
「さっき、ファミレスで煮込みハンバーグ頼んだ……」
「どうしてそれを?」
そこまで聞いて、ようやく気づく。蹲っている女の子は、さっきのファミレスの店員だった。もう仕事を終えたのか、給仕服から私服になっていたから気づかなかった。
「店員さん……。お腹でも痛むのですか?お薬は、……ええと、持っていないから、どこかから取り寄せましょうか?」
「……いや、いいです。お腹痛い訳じゃないので。ほっといて下さい」
「そういう訳にもいかないわ。お医者様を呼んだ方が良いかしら?……あ、でも、今私携帯を持っていないんだった。どうしましょう……」
「……」
「誰かに声をかけて、……あら、ここはあまり人がいないのね……。通りで暗い道だと思ったのですわ」
「……うるさいなぁ」
「え?」
蹲っていた店員さんが立ち上がると、こちらを睨むもんだから。どうして?なんで?助けようとしたのに?と、私の頭の中は疑問で埋まる。けれど、夜の狭間にはっきりと見えた店員さんの顔は涙に濡れていたから思わず思考が止まった。
「ほっといて下さいって言いましたよね」
「店員さん……」
「私の名前は店員さんじゃないです。なんなんですか」
……あぁ、救われないのね、貴女も。
ぐっと拳を握れば、存外食い込む爪の感触がリアルで。それは痛い程の現実だと私に教えていた。
私、貴女の名前も何も知らないけれど、貴女のお陰で心がようやく動いた気がする。
「綺麗な景色を見に行きましょう」
「え?」
「ひとつ良い所を知っているんです。そこならきっと、絶景だわ!」
店員さんの手を取り走り出す。自分からワガママを言うのは初めてな気がした。でもこうしたら、私も、店員さんも、救われる気がしたの。
河川敷近くの高層ビル。その裏口から入り込む。裏口は今工事前で扉が壊れたままだと聞いたことがあった。中に入り、荷物用エレベーターに乗り込み最上階を押す。
「あ、ごめんなさい、掴んだままで」
パッと掴んでいた手を離した。店員さんは俯いて肩で息をしていた。何も、言わない。
「私は椿と申します」
「……」
「私、自分の生きる意味が分からなくって」
「……」
「今日、初めてファミリーレストランに行ったんです。一人で食べるご飯より、ああいう場で食べるご飯の方が好きだと思ったわ」
「……いるみ」
「いるみ?」
「私の、名前」
「いるみさん、っていうのね。ありがとう」
エレベーターが最上階に着き、そこから更に非常階段で上に登る。そうして辿り着いた屋上は、風を存分に感じられる最高のステージだった。ギリギリ端まで行けば下に道路が見えて、車の往来が綺麗に見える。胸の高鳴りがうるさかった。こんな高揚感は初めてだった。
私、今日で一生分の初めてを経験しているのかもしれないわ。
「もう誰かの為に生きたくないの。私は、……わたしは、わたしとして生きてみたい。夢を抱いてみたい。朝に怯えたくない」
後ろを向けばようやく、しっかりと目が合う。彼女は涙でぐしゃぐしゃの顔だったけれど、とても綺麗な顔をしていた。ゆっくり隣にやってきて、二人で目の前の絶景を眺める。
「なんだかわたしばっかり話しているわ。貴女は?貴女は何が欲しい?どう生きたい?」
「私は、何も……」
「あら、嘘はよくないわね」
「……誰かが作ったあったかいご飯が食べたい。自由に、なりたい」
「自由って、難しいわよね」
上を見上げれば、いつもより煌めく星が近くに思えた。
「夢みたい」
「……このままわたし達、一番星になれたらいいのに。そうしたら、神様もわたし達を一番に見つけてくれるわ」
下を見るな、上を向け。いつも家の人にそう言われてきた。レベルの低い下を見ても無駄だとそう言われてきた。けれど実際どうだろう。確かに上の景色は手が届かないほど遠くて綺麗だと思う。でも、人間は無駄な事も大事なのかもしれない。
もう一度下を見る。
ビルの下は、絶景だ。