文章を上手く書きたいなと最近特に思う。
意識して量を書くようにしたから強く思うようになったんだろうけど、とにもかくにも、もどかしい毎日を送っている。
今現在、朝からエトナイのネタが思いついて、書く前に脳内である程度形にしていた。
突発短編なら特にそこまでせずに文にしていくけど、こういう続き物はある程度頭の中で固めておくといいと『秘密のハーバリウム』で学んだからだ。
そうして脳内でエトナイの世界に浸り、泣きそうになるぐじゅぐじゅ感に苦しみつつ、まとめてまとめて、こっちの終わり方のがいいんではないかとか、いやいやでもこれはこっちの終わり方が綺麗でいいよとか、会議は絶賛難航中。
一応大体のストーリーは出来上がったんだけど、終わり方だけずっと悩んでいて。
もう出来ていたはずの終わり方より、こっちの方が面白いんでは?ってさっき思ったら思考が止まらなくなった次第。
あ〜、この終わり方だと絶対面白い。けど、世界観を壊してしまうのではないか?
てかそもそもそれを文章に出来る?
う〜ん。
無理ですな。
オワタ\(^o^)/
なんて、色んな理由をこじつけて、結局変えない事に今決めた。
ついさっき、悩んでる途中に1度現実逃避したくなってTwitterをぼんやり眺めていた。
その時にたまたま誰かのリツイートとかで回ってきたブログを見つけた。
読んだ。
好みの文の書き方だった。
私には出来ない文の書き方で、私が憧れる文の書き方だった。
いいなぁ。こんな感じの書き方をほんとはしたいんだよな。
なんていうか大人っぽくてかっこいい。
スタイリッシュ。良い。
……文章ってただの文字の羅列なのに、どうも書き手の性格や癖が露骨に出るなと思う。
ブログなんかは特に出やすいなと思う。
そしてTwitterも、使い方はもちろん、文の書き方に性格が出て面白いなぁって思いながら見てたりする。
他愛ないメッセージだってそう。相手に合わせて文の書き方を変えてる自分に気づいた時、何となく「ふふ……」ってなる。なんの感情かはわからない。
思えば私は小学生の頃から物語は書く癖に、作文が大嫌いだった。
小学5年生の時、宿題で出た読書感想文を書き終えたら、それを読んだ父と姉に文章やら色々とおかしいと大バッシングされ、その2人に指導されながら書き直した思い出が鮮明に残っている。
それ以来私は学生の間、原稿用紙指定の作文が宿題に出た時には必ず語尾や言い回しでどうにか文字数を稼ぐ、つまらない書き方をしていた。内容なんてどうでもよかった。
中学生の時の宿題で、『走れメロス』のスピンオフを原稿用紙に書けというものが出た。
原稿用紙2枚ほど。
何を書けばいいんだろうとみんなが悩む中、私は案外サクッと設定を思いついて、思うがままに書いた。
それを提出した次の授業の日、先生がこう言った。
「評価の高かった人の作品を先生が読みます」
何それ恥ずかし。と思った次の瞬間、先生が読み始めたのは確実に私の作品だった。
やばい。嬉しいと恥ずかしいが一気に私を襲う。
えっ、何これ何のプレイ?
うっそ、嬉しい、けどみんな聞いてるのめっちゃ恥ずかしい。
無駄にポエミーにしすぎたのにまじでやばい。
結果、最後まで読み上げられ、ご丁寧に私の名前も呼んでくださり、クラスの拍手を存分に浴びた訳ですが。
その原稿を久しぶりに見つけたんですよね。
それで、久しぶりに読んでびっくりしたのは、大抵の人がやっぱりメロスの心情だったり、友人セリヌンティウスの心情や、妹の心情を表す中、私はあの邪智暴虐の王の心情を書いてて、ひねくれてんな〜!って(笑)
あと、文の書き方や表し方が、今とミリ単位も変わってないなって。驚く程に。
せっかくだから晒します。
かなり短いので。
メロスが去ったあとの王の夜
おかしいぞ。なぜだ。わしは何一つ間違っておらんというのに非常に不愉快だ。これもすべてあやつのせい。なにが「町を暴君の手から救う」だ。わしが暴君だと?
満天の星の下、王はバルコニーで一人過ごしていた。王は呟いた。 「本当は、わしだって妻も子も、殺すつもりなど……。皆が悪いのだ……。誰一人気づいてくれぬ。」その呟きは本心なのか、王自身もよくわからなかった。ただただ静寂の中に声が吸い込まれるのを感じた。手元にあった一輪のバラを手放し、落ちていくそれをみつめたが、王はその花がなんという名なのかなど知らない。「今頃、地下の牢屋でセリヌンティウスとやらは、さぞ苦しんでおるのだろう。友を疑っておるのだろう。お前は友に裏切られるのだ。苦しむだけ苦しむがよい。ああ、かわいそうなもの。やはり人など信じられぬ。」また、静寂へと消えていく声。
王はそんな静寂よりも、静かに、ゆっくりと、堂々と、バルコニーを後にした。去り行く王の背中をみた空は、一方で走るメロスのように月を急かし、今や誰もいないバルコニーを優しく優しく照らしはじめるよう太陽に言った。先程まで王を見守っていた月と太陽は何も言わず、空の言う通りに動いた。
ね。変わらんでしょ。
The・鶴野が書いた文!って感じ。
この時は楽しかったなぁ。
やっぱり制限がないってのは重要なのかも。大抵の作文は、きっちりと順序だてて、尚且つ型に嵌めて書かなきゃいかないし、窮屈なんだろうな。
もっと、文って自由でいいのに、そこを難しいと突き放してしまったんだろう。
今なら読書感想文を書けと言われても、楽しく、……いや、やっぱ無理かも。読書感想ブログって名前なら、楽に書けるのしれない。
走れメロスで褒められて以来、私は文章をひたすらに書く人生を歩む、訳ではなかったが、国語の授業は好きだった。教科書をひたすら読むのが好きだった。いっぱい感情移入して、いっぱいなんでこんな風に書いたのか考えた。
高校の教科書で森鴎外の『舞姫』を読んだ時、森鴎外の巧妙な文の書き方を面白いと思った。けど、友達は文章が難しくて意味があまりわからないと言った。
確かに、この時代の小説はちょっと読むの難しいよなって思いつつ、「舞姫は諸説あるけど、森鴎外自身の自伝と言われてて、内容はこんな話で……」って言ったら思いのほか好評で。
そこから、森鴎外めっちゃナルシストバージョンの舞姫現代語訳小説を、国語の授業中にカリカリと執筆しては友達に読ませていた。(先生ごめんね、授業もちゃんと聞いてたから許して)
おっす、俺豊太郎。もう蒸気船の石炭積み終わったみたいでさ、俺が今いる中等室の机の周りめっちゃ静か。
だから白熱電灯光ってるけどマジ虚しいwwww 今日はいっつも夜にトランプ、あ、日本じゃまだ知らない人多いから言い換えるとカルタをやる仲間もホテルに行きやがって、俺、船にぼっちなう。
こんな感じで書いてた。
森鴎外さんや舞姫のファンがいたら土下座する。申し訳ない。
が、これが友達にウケた事が嬉しかったし、自分自身内容がわかりやすかったし楽しかった。
……なぜそのナルシスト現代語訳の文があるかって?
冒頭数ページを見つけてしまったからだよ。
我ながら面白かった。
こっちのナルシスト現代語訳の方は、また改めてブログに載せようかなとか思う。舞姫の最初の2ページ分くらいしかないし、めちゃくちゃ世界観崩壊してるけど……。ご愛嬌って事で……(?)
またブログが長くなった。
最早お家芸。これこそ私。開き直れ私。はい、開き直った。
結局は文を書くことが大好きで堪らないのだ。
ただ、順序だてて書こうとすると上手くいかないだけ。
今エトナイの執筆で止まってるのもそう。書き方がわからなくて模索しているのだ。こればっかりは練習あるのみ。
ほんと、何事も、練習あるのみ。
努力をした者だけが、得られるもの。
……エトナイのテーマでもある、努力。
努力をした者は本当に報われるの?報われてるの?
ってずっとずっと問いかけながら書いている。
問いの答えは出るのか。
無事に私は書き方を見つけられるのか。
誰かの心に刺さる話を書けるのか。
まだまだ私の心は、走っている。
邪智暴虐の王が知らなかった世界を、私は知っている。
書き手たる私に見える世界は、如何に。
あでゅー。