アサガオが咲くと、夏だなって感じる。夏の日差しは痛いほど肌に刺さって、爛れてしまいそう。こんな日は冷房の効いた場所で涼むに限るよなぁと考えて、不意に足が止まった。
夏の校舎。廊下。陰。影。
目線の先の光景に思わず息を呑む。誰もいないと思っていた教室、そこには。
秘密のハーバリウム
夏休みは不思議なもので、長いようであっという間に過ぎていく。課題がたんまり出されるのは嫌だけど、真面目にやってればちゃんと終わるし、堪能しようと思えば思うほど、毎日が楽しくなっていく。
そんな最高な夏休みだけど、今日の私はいつもの様に制服を着て学校に来ていた。でも授業のない学校は、なんだか毎日来ている学校とは別ものみたいでワクワクする。グラウンドから聞こえる野球部の掛け声や音、どこかの教室から聞こえる吹奏楽部の音、何もかもが特別に思えて仕方ない。
「失礼しまーす」
長い廊下の先にある、生徒会室と書かれた教室のドアを開けた。けど、そこには誰もいない。私を呼び付けた友すらいない。あれ?と首を傾げながら、制服のポケットから携帯を取り出してメッセージを打ち込む。
私自身は生徒会に属していないけど、暇なら手伝いに来ない?と友の雨宮に言われ、ノコノコとやってきたのだ。来てみたものの誰もいないのはとても困る。何をやったらいいのかわからないし、てかそもそも何の手伝いなのかすら聞いてなかったし。
ポコ、とメッセージが送信される。しばらく待ってみるけど、既読にはならない。
来ておいてなんだけど、呼んでおいて何なんだ。疑問しか頭にない私は、鞄を置いて近くを探すことにした。生徒会室は三年生の教室と繋がっていて、廊下を渡れば三年三組と書かれた教室に着く。チラッと覗いてみるけど、誰もいない。それもそうか、今は夏休み。誰かがいる教室の方が少ないのかもしれない。そうして二組、一組、と覗いてみるけど、特に誰かがいる感じはしなかった。ぼんやりと足を止めて教室の反対側、中庭側を見る。そっちの窓には、綺麗なアサガオのカーテンが出来ていた。
「夏ですなぁ」
眩しそうに少し目を細めて、ふぅと息を吐く。そうして私はくるりと後ろを向くと、今来た道を戻ることにした。暑いし、冷房の効いた生徒会室で待ってた方が楽かも。なんて理由。アサガオのカーテンを見ながら歩くと、心持ち涼しい。けど、途中でガタッとどこからか音が聞こえて私は足を止めた。アサガオのカーテンの反対側、三年三組と書かれた教室。さっきは誰もいなかったよね?と首を傾げつつ、もう一度ドアの窓から音の聞こえた中の様子を伺う。
「雨宮?」
教室の奥、カーテンに隠れて少し見えづらいが、後ろ姿は友達の雨宮に間違いなくて。さっきは見落としてたのかもと思いながら、ドアに手をかけた。
その次の瞬間、息を呑む。
雨宮の更に奥に、もう一人いる。あれは、千歳先輩……?
千歳先輩は生徒会の書記を務めている、大人しいイメージの人だ。雨宮と話してる所は見た事なかったけど、生徒会では仲良しなのかもしれない。
仲良し、なのかもしれない。
こちらを向いている千歳先輩と、目が合う。まるで心臓を掴まれたような感覚を味わうと共に『見てしまった』と脳が警報を鳴らした。離れなきゃ、と思う一方で体がカチコチに固まって動かない。歩き方も、なんなら呼吸法まで忘れてしまった気がする。
すると、雨宮が勢いよく振り向いたかと思えば走り、私の目の前のドアを開けた。
「っ……!」
「あ、あまみ」
や。
目が合って、私はひゅっと息を吸う。雨宮の顔は、見た事ないくらい赤くて、泣きそうで、怒ってそうだった。雨宮は私が名前を最後まで呼ぶ前に、思いっきり私の肩にぶつかって走り去る。
それに対して痛い、とは思わなかった。いや、思えなかった。それくらい、衝撃的だった。
何、あの表情。どういう表情。
私は雨宮が走り去った方をぽかんと見つめる。生徒会室の方じゃなくて、三年一組の方の廊下を走っていった雨宮は、どこに向かったんだろう。ていうか追いかけた方が。
ぐちゃぐちゃに思考が入り乱れて、やっぱり動けない。そしたら急に強く腕を引かれる。
千歳先輩は私の腕を引いて教室に引き込むと、ガラリとドアを閉めた。ドアの閉まる音が、やけに遠くで響いたような気がした。閉まったドアを背にした千歳先輩と、視線が絡んで。
「……葉月、さん?」
声が、空気を揺らす。数秒経ってから、自分の名前を呼ばれたのだと気づいて、私は上擦った声で答えた。
「は、はい……」
千歳先輩もよくよく顔を見ると、さっきの雨宮と同じ、赤くて、泣きそうで、怒ってそうな顔をしている。
何、何なの。どういうこと。
状況がさっぱりわからない私に、ゆっくりと息を吸った千歳先輩が手を伸ばす。その手は私の片頬を包むと、親指の腹で優しく撫でた。背筋がゾクリとした。
「下の名前、は?」
とろりと蜂蜜みたいに、千歳先輩の声が溶け込む。知らない世界が、私を飲み込みはじめる。
「……沙羅」
「沙羅……さん」
数えきれない程呼ばれてきたはずの自分の名前が、まるで他人のものみたいだ。息をひとつ吸って吐くだけで、肺が潰れてしまいそうで、苦しい。
「……あのね、沙羅さん」
ダメ、何か危ない気がする。
「秘密……にしててほしいの」
踏み込んじゃいけない気がする。
「私と、雨宮さんの……こと」
踏み込みたいわけじゃないのに。解けない。
「……秘密にしてくれる?」
ぽたり、ぽたり。
心のどこかで、水滴の堕ちる音がした。外はたくさんの音で溢れているのに、今、ここだけは、その水滴の堕ちる音だけが、響いていた。