突然ですが、浮気ってどう思いますか?

 クローズした店内。一人カウンター席に座りぼんやりとホットコーヒーを飲む。今日のお客様は暖かい笑顔のお爺さんで、こんな事を教えてくれた。

「ニオイバンマツリが花を実らせる季節になりましたねぇ。とても良い香りがして好きなんですよ、私。紫の花を咲かせるんですがね、段々と白い花に色が変化してく。その変化やグラデーションがこれまた楽しくって。匂いも、花も、素敵だと思いませんか?」

 ニオイバンマツリ。ナス科・ブルンフェルシア属。開花期は4月から7月。花の色が紫から白に変わることが特徴。
 パソコンでカタカタと花について検索してみれば、たくさんの情報が飛び込んできた。ジャスミンの香りがするらしい。見た目も可憐なのに目を引いて、とても綺麗。
 もう一度ホットコーヒーを一口飲み、お爺さんの言葉の続きを思い出す。
「でもねぇ、花の色が変わることから、花言葉が『浮気』なんですって。だから、妻はあまり好きじゃないなんて言うんです。いやだなぁ、私がヤンチャしたのは昔のことなのに……。ずっとずっと覚えてるんですから……」
 花言葉、『浮気』。花の英名では『Yesterday-Today-and-Tomorrow』なんてのもある。昨日、今日、そして明日。花の色も変われば人の心も変わっていくのだろう。
 昔はヤンチャしていたと言うお爺さんの心も、今は奥様にぞっこんで、その後はたくさんの思い出話を聞かせてくれた。
 出会いは近所の喫茶店で働いている彼女を見て、一目惚れだったこと。何度か通って名前を覚えてくれた時、たまらなく嬉しかったこと。そこから交際を申し出て、楽しい生活が始まったこと。でも、彼女の方の親が交際を認めてくれなくて大変だったこと。プロポーズは、出会いの喫茶店でしたこと。

「だからねぇ、喫茶店は私にとって大切な場所なんです。なんていうかなぁ、雰囲気っていうんですか、それがたまらなく好きで。デートでも、結婚してからも、よく喫茶店巡りをしてたんですよ」

 そして、もう奥様は隣にいないこと。

「喫茶店に来ればまたいつもみたいに話が出来る気がして……。ついつい、こんな歳になっても喫茶店巡りを辞められなくって。特に、この季節は……。……ほら、ニオイバンマツリ。咲くでしょう。咲くとね、どうしても……。花の色が移ろうのをね、見届けたいんですよ。それで、紫だった花が全部白に染まったら、私はね……」
 ホットコーヒーの湯気がカップからゆらりと揺れる。ハンカチで涙を拭うお爺さんに、私はかける言葉を一瞬見失った。でもきっと、ここで見失ってはいけない。しっかりと、見つけないといけない。花は、見つけられてこそ美しいのだから。
「花が全部白に染まったら、次はきっと梅雨が来て、それから夏が来ますよ。夏が来たら秋が来て、冬が来て、また春が来て、紫の花が咲きます」
「でも、次に咲くのは来年だ……」
「あっという間ですよ、きっと。……あなたは、ニオイバンマツリが好きですか?」
「あぁ、大好きさ……。……もう浮気なんてするわけない。ずっと、ずっとずっと大好きさ……」
 お爺さんがこちらを向いて、くしゃりと優しく微笑む。皺の刻まれたその表情は、まるで花のように美しかった。

 来年のニオイバンマツリが咲く頃に、また来ます。

 それが、お爺さんの最後の言葉。来年も、何なら昨日でも今日でも明日でも、お待ちしております。と私が答えると、嬉しそうな頬笑みを浮かべてお辞儀をしてくれた。そうして、お爺さんは店を後にした。

 ニオイバンマツリ。花言葉は『浮気』。その他にも、『夢の名』『幸運』。どうかあのお爺さんがこれからも素敵な夢の名前をたくさん見つけて、そしてたくさんの幸運に恵まれることを、私はこの喫茶店から熱心に願うのみだ。

 ホットコーヒーを最後まで飲み干し、カップをそっと置く。今日はココアじゃないのかって?いやいや、確かに春夏秋冬朝昼晩ココアを飲みたいと常日頃言っているが、たまにはいいでしょう。ココアを愛する気持ちは変わりませんし、これは今日の思い出の為の一杯です。
 ……って、言い訳をすればするほど、本当に浮気をしている気分になってきた。いけませんね、足掻くだけ無駄です。これは多分考えたらキリがないやつです。私はココアを1番愛していますもん。大丈夫。

 ……大丈夫、ですよね?

 パソコンを閉じて、ふぅっと息をゆっくり吐く。明日は何がなんでも朝昼晩ココアを飲もうと決めた。気持ちの持ちようだ。愛は偽ってはいけない。純粋に、気楽に、ただ好きなものを好きと思おう。
 移ろう花や、季節や、心に、身を委ねて。