「あたし、アイドルを辞めようかと思うの」

 静かな空間に、ぽつりとそんな声が響いた。声の主は私の前のカウンター席に1人座り、俯き加減でいつも注文するメロンソーダを小さく1口飲む。そのあとに上目遣いでこちらを見遣るので、なるほど確かにアイドルは可愛いなぁとぼんやり思ってしまった。
 危ない危ない。きちんとお客様と向き合わねば。
「どうして、辞めようと思ったんですか?」
「……わかんない」
「わからないけど、辞めたい、ですか?」
「……そう」
 メロンソーダのグラスについた水滴を、人差し指で静かに潰してはまた新しい水滴を潰す。その姿は、大きなステージでたくさんの人を魅了するアイドルではなく、ただ1人の小さな女の子だった。
 職業が違えば、悩みも違う。いや、職業が同じでも、絶対的に悩みは人それぞれ変わってくる。悲しみや苦しみは、寄り添う事は出来ても完全に共感は出来ない。なら、今の私は、彼女にどう寄り添えるんだろう。
 くるくると自分のアイスココアをストローで回して、氷がカラカラいう音をじっと聴いていた。そのうちに彼女が濡れた手をおしぼりで拭いて、何かを決心したかのように息を吐く。
「なんでアイドルやりたいのかわかんなくなっちゃったの」
 小さい頃からの夢だったのに、と話すその表情は、大人びていた。
「ユニットでリーダーやってるけど、リーダーって呼ばれる度に、自分が迷子になってく気がする。甘えなのはわかってるんだけど、今のあたしは、多分リーダーなんか向いてない」
「アイドルのリーダーは、何か特別なんですか?」
 普段あまりテレビを見ない私の無知な質問に、今までずっとグラスを見ていた彼女の目線が上がる。瞳は思っていた以上に弱い光を宿していた。
「特別……かぁ。別に、なんかすごい役割じゃないよ。話す時にまとめたりとか、あと……なんだろ。全然思いつかないや」
「リーダーって名前だから、そのユニットのトップって事ですよね」
「まさか!名前だけだよ。センターでもなし、1番人気でもなし、人気でいえば下から数えた方がはやいもん。あー……、だから、尚更、しんどいのかも。……そっかぁ、あたし、しんどいんだなぁ……」
 がくんと項垂れて、大きくため息。うーむ、これは大変だ。彼女の悩みは数日で出来たものではない。何日も何ヶ月も、何年も、ずっとずっと積み重なった末に溢れ出したものなんだろう。この悩みに、辞めろも続けろも、なんだか違う気がする。でも、彼女にとっての答えはきっと、もう心の中にはあるんだろう。それをどうやって解すかが店長の見せ所です。

 カランカラン!
 私が意気込んでアイスココアを飲み干した直後、扉についた鈴が大きく揺れて、ドタドタと誰かが店に勢いよく入ってくる。
「やっべぇぇ!ギリ間に合った!!」
 空気を読まないとはこういう事なのか。としみじみ思う。しかし逆に良い意味で空気が変わった感覚があって、私はカウンターに入ってきた侵入者……もとい、バイトくんにおしぼりを差し出した。彼はお礼を言いながらそれを受け取ると顔に当て、「あっちぃ!顔の汗拭くのになんで温かいおしぼり渡すんだよ!」とノリツッコミに応じる。
 いいなぁ。人との繋がりは、やっぱり暖かい。まるでこのおしぼりのように、暖かい。
 あたふたするバイトくんをのほほんと見守っていると、私の後ろを見て急に目を見開くので、どうしたんだろう?と後ろを見ると、これまた同じように目を見開いたアイドルさんがいた。
「ちょっ……この店、他に人がいないから来てたのに、な、なんで、だっ、誰……!?」
「うわっ、えーっと、あの、あのアイドルのリーダーだ!!!」
 目を見開いた2人の声が重なる。間に挟まれた私は、まずどちらから話せばいいのかわからず、おろおろしてしまう。すると、ばぁんっと彼女の方がカウンターを叩いて立ち上がった。
「どういうこと店長!こいつ誰!!」
「あー!!思い出した!!ハルカ!!ハルカだ!!」
 しかし、またもや重なる声。もしかしたら2人は仲良くなれそうですね?という言葉は飲み込み、またおろおろしてしまう前に1度息を大きく吸って吐く。どうどう、両手で制止してから、状況を説明する事にした。
 まず彼女に『彼はバイトくんで時たまやってくる良い子、他にお客様は今日は来ませんし、彼にも秘密は守ってもらいます』そして次に彼に『彼女は確かにアイドルさんですが、この喫茶店内では職業の前にお客様なので無礼を働かないこと』……。ふぅ。とりあえずこれで大丈夫でしょうか……。2人の頭がどれくらい納得したかはわかりませんが、こればっかりはどうしようもないので話を進めましょう。
「それで、ええと、アイドルを続けるかどうかですよね」
「……え、まぁ」
 ストンと座った彼女を見て胸を撫で下ろし、何やら反応しているバイトくんを着替えてきてくださいとバックヤードに押し込み、ようやく落ち着いた私はホットココアを作成し始める。
「他に何か……思ってる事はありますか?この際です、色々と心に溜まってる事を話してみてください。もちろん無理はしないで」
 カウンターの彼女のメロンソーダが残り少ない事に気づき、チリンチリンとベルを鳴らす。彼女はまたがくんと項垂れて、ぽつりぽつりと話し出した。
「んー……、どうせみんな、王道に可愛い子が好きでしょ?私はどっちかっていうとサバサバしてる方だし、無理して可愛くしてみても疲れるし。周り見てると……アイドルって何なんだろって思うの。同じユニットの子も、正直なんでそんなに性格良くないこの子が人気なんだろ〜とか思っちゃうし、……でもアイドルとして愛される素質があるから人気なんだよね、わかってる……」
 空いたグラスと追加のメロンソーダを入れ替えれば、彼女はそこで話を区切りズズっとストローで1口飲む。それと同時にバイトくんがエプロンを後ろ手に結びながら戻ってきた。
「でも俺の友達、女ッスけど、ハルカさん推してましたよ」
「バイトくんのお友達ですか?」
「はい。ハルカさんは女の憧れだってずっと隣で言うから流石に覚えました」
 バイトくんのその言葉に、アイドルさんが顔を上げる。
「だから俺ん中では人気ッスよ、他のメンバー知らないってのもあるけど!」
「でも……」
「まー、しんどいならさっさと辞めたらいいと思うし、辞めたいって一旦迷ってるってことは続けたいってほんとは思ってるかもだし、ハルカさんはアイドルである前に一人の人間だろ?なら、ワガママな選択肢だってたまにはしてもいいっしょ」
 ……おやおや。バイトくん、良い事言うでは無いですか。彼女にはこれくらいストレートな言葉の方が伝わるのかもしれません。現にほら、彼女の目がさっきよりも潤いを帯びている。強い光を宿し始めている。
「ハルカさん、店長である私からも一言。今の自分をもっと大切にしてあげてください。大丈夫、あなたはとっても太陽のような方ですよ。きっとあなたの笑顔は、どこにいてもたくさんの方の心を暖かくします

 きっと、悩みには明確な答えが必要な時もあれば、ただ背中を押す答えが必要な時もある。彼女の場合はきっと後者。弱ってしまった心に必要だったのは、微炭酸のメロンソーダみたいに、ほんの少しの刺激。
 この世の中、名前はどんどんと呼ばれる機会が減って、役職だけが先行してしまう時がある。だからこそ呼んであげてほしい。大切な人ほど、名前を。
 なぜなら生きている限り、どんな事があっても、どんな立場でも、どんな職業でも、みんなたった1人のかけがえのない存在なのだから。

 さて、ちょうどいい具合にぬるくなったホットココアを飲みましょう。その後はたまには私も、メロンソーダを飲もうかな。