桜が満開になった。
ただそれだけのことなのに心が踊るのはどうしてだろう。心がぽかぽか暖かくなるし、すべてのことを優しく受け入れることが出来る気さえしてくる。実際、華やかになった外を見る度に笑顔になり、仕事をする手が進みに進んだ。
先程までお客様がいたテーブルを片しながら、窓の外をぼんやりと眺める。清々しいほどの青に、綺麗な薄ピンク。
あぁ、やっぱり私は春が好き。
ふぅ……と小さく一息つけば、使用済みのカップや布巾をデシャップに置き、少しだけ、とお店の扉を開いた。途端に溢れてくる気持ちの良い空気は、私の肺と心を幸せで満たしていく。深呼吸すればするほど、目の前の景色が煌びやかになっていく様だった。少し暖かい風が、私の髪を揺らしては擽ってくる。
「良い匂い……」
晴れの春の匂いを目一杯吸い込んで、仕事に戻らねば……と扉を閉めようとしたその時、ひらりと桜の花が丸ごと店内に入ってきて。私の足元にぽとりと落ちた。
おや。桜の来店。
なんて、笑みを浮かべながら桜の花を手に取る。花びらではないそれは付け根から綺麗に咲いていて、さっきまであの桜の木の仲間だった事を鮮明に教えてくれた。でもそこで、ふと疑問がひとつ。
桜といえば桜吹雪。花びらが舞っていく姿は花見の醍醐味でもあるし、散るからこそ桜というイメージがある。なら、この花はどうして花びらが離れていく前に丸ごと……?
考えば考えるほど、手の中の小さな桜が大きな不思議に思えて仕方がなかった。
「店長は、桜が満開に咲いているのと散っていくの、どっちが好き?」
この前バイトくんに言われた言葉を何となく思い出す。その時は「桜は美しく散るからこそ乙なものですよ」なんて答えたけど、これは私の想像している散り方ではない。
そこで扉をもう少し開けて、この喫茶店の近くにある桜の木の根本を見てみる。すると、これまた不思議な事にいくつか桜の花が丸ごと落ちていた。
はてさて。誰かが木を揺らした、とか?でもそんな力を持った人がいたらびっくりしてしまう。じゃあ、天気のせい?……いや、ここ数日は絶好の花見日和だ。ならどうして。
しばらく考えていると、春風がびゅうっと私の髪を強く揺らしてきたので、慌てて扉を閉めた。そのままカウンター席に座り、桜の花をそっとカウンターテーブルに置く。じぃっとそれを見続けてみると、やっぱり桜は綺麗だなぁなんて思ってしまって、違う違う今考えるべき事は謎を解明することだと頭を振った。
「料理長、桜の花が丸ごと落ちる理由って知っていますか?」
いっそ誰かに頼ってみるのも……と、料理長に尋ねてみるも、小さくチリンチリンとベルが鳴るだけ。料理長も知らないとなると、本格的にこの謎は迷宮入りの予感。
……別に、そこまで気にすることでもないのかもしれない。けれど、どうしても、どうしても気になって仕方がなかった。この謎を解き明かさないと、私はもう春を心から楽しめないかもしれない。
「ぐぬ、ぬぬ、ぬぬぬぬぬ……」
自然と漏れる呻き声のようなもの。抑えきれないモヤモヤが、どうしても止まらない。
その時だった。
窓の外から、ちゅんちゅん、と可愛らしい声が入ってくる。その声は馴染みのあるもので、思わず私は窓に近寄った。そのまま窓の外を見てみると、桜の木にスズメさんが数羽止まっていて、ぴょこぴょこと楽しそうに笑っている。
……なるほど。
その姿を見た瞬間、私は居ても立っても居られなくなり、小走りでカウンターに置いた桜の花を手に取った。そしてまた窓に戻れば、ちょうどスズメさんが桜の花を食べているところで。小さなクチバシで、桜の花をまるごとパクリと食べている。いや、実際は吸っている、のかな。
スズメさんは他の鳥と違いクチバシがそこまで長くない為、花の蜜を吸うには難しく、だから花の根元をちぎり、そこから吸い取っていくのだ。その姿はなんとも、愛らしい。そして一通り満足したのか、咥えていた花を落とした。
もう一度、私の手の中にある桜の花を見てみる。
「これは、スズメさんが春を味わっていたからなんですね……」
春の味わい方は、人それぞれ、また、命それぞれだ。私も春を目いっぱい味わう為に、空を、花を、空気を、たくさん愛でていこう。日常のそんなささやかな事を、愛しく思えるのは幸せな証拠。なんでもない幸せの証拠。春も幸せも、噛み締めて生きていきたい。
ふふ、やっぱり春はほっこりするなぁ。なんて改めて思ったら、急になんだかやる気が湧いてきた。早速掃除を……。
「……」
いや、予定は変更だ。今日はこんなに良い天気。新作メニューでも考えることにしよう。新しいドリンクメニューを考えるのも良さそうだな。
誰かに幸せを提供する為に、まずは私の幸せを形にしていく。こんな一日は、まさに春の『醍醐味』ですね。