春というものは、出会いと別れの季節というらしい。
 現に新年度は4月スタートが多いし、何かと環境が変わるタイミングでもあるこの季節は、感情というものもコロコロと変わっていく。

 このなんでもない喫茶店にも、お別れの時がやってきました。



 お別れ、と一言で表してもたくさんの意味がある。人との別れ、ペットとの別れ、住んでいた場所との別れ、そして、使っていたものとの別れ。それらはなんでもない毎日の中で突然やってくるのである。

「!?!?」

 それは、私が毎朝の日課であるココア作成にいそしんでいる時のこと。いつも通りニコニコ笑顔で作業していたら、突然キッチンから何かが割れる音が盛大にした。
 むむ。料理長が何かお皿を割るのはとても珍しい。私が音に対して過敏に反応してしまったのは隅に押しやるとして、ちょっとというかものすごく心配だ。
 ということで、とりあえず作成途中のココアをそっとデシャップの端に置き、キッチンの方を屈んで見てみることにした。
「……料理長、大丈夫ですか?」
 このなんでもない喫茶店の配置上、キッチンの全貌をこちらから見ることはできない。飲食店特有のデシャップと呼ばれる場所からこじんまりと顔をのぞかせるだけ。おそらく20センチほどの高さしかないそこから見えたのは、人のいない物静かなキッチンだった。
 うーん。ずっと見ているとこの体勢は腰が痛い。……そんなことはさておき料理長の姿がないのはどうしてだろう。なにか事件が起きた……?なんでもない喫茶店でとんでもない事件!とか……。とんでもない喫茶店……。……それはない。色んな意味でない。……そうじゃないとしても、料理長に何かあっては一大事。この喫茶店が経営出来なくなってしまう。ココアしか出せない喫茶店になってしまう。ここあしかない喫茶店になってしまう。
 すると、キッチンの奥からベルの音がした。

「なるほど……。グラスをひとつ割ってしまったんですね」
 料理長によると、ふとした拍子に触ってもないグラスが棚から落ちて割れてしまったらしい。しかも綺麗に粉々になってしまったらしく、直す事も出来そうにないとのこと。それは仕方がない。どうしようもないし、割れてしまったものはもう元には戻らない。諦めが肝心という言葉もあるし、そういうことはスルッと忘れてしまった方が楽になれる。
 と、私は思っていたのだけれど、あまりにもしゅんとする料理長が心配で更に理由を聞くと、ポツポツと話してくれた。

 そのグラスは特注品だった為、ひとつしかなかったこと。

 そのグラスは私が特別な時に飲むアイスココアに使うものだったこと。

「……なるほど」
 料理長はグラスが割れた事により私が落ち込むのを心配してくれていたのだ。
 確かに悲しい。もうあのグラスでココアを飲めないなんて、考えただけで苦しすぎる。私のココアライフの終わりなんではないのか。目の前が真っ暗になる。
 でも、控えめに聞こえたベルの音にハッと前を向くと、私の作成途中で止まっていたホットココアが完成されていた。
「料理長……。……ありがとうございますね、いただきます」
 ココアを数度ふーふーしてから、1口。程よく熱すぎないこのココアは、料理長が私の為に考えて作ってくれたもの。やっぱりココアは最高だなぁ。そして、何より料理長の優しさが、存分に染みるなぁ。

 お気に入りのグラスとの別れは本当に些細な事で、仕方ないと一言で済ませてしまえばそれだけの事。けど、その別れを大切に思うと、想像以上にたくさんの事に気付くことが出来るのだ。
 あのグラスで初めて飲んだアイスココア。たくさんの思い出。普段忘れていた事を思い出す瞬間は、胸がじんわり暖かくなるもの。思い出によってはきっと、切なくなってしまう時も、あるのだろうか。
 それに、料理長の優しさを再確認することも出来た。人の為に動く優しい感情というものは、最高に柔らかい。それに改めて触れる事が出来て、私はとても幸せになれました。

 これが、なんでもない喫茶店の醍醐味。

 なんでもないことすべてに意味を持つと人は疲れてしまうけれど、時にはなんでもないことに大切に触れて心を暖めてほしい。このホットココアのように。

「料理長、今度また新しいグラスを買いにいきましょうか。もうすぐ桜も満開ですし、桜のグラスなんかいいかもしれませんね」

 キッチンからチリンチリン、と軽快なベルの音が聞こえる。
 素敵なグラスとの別れの次は、素敵なグラスとの出会いを、探すとしましょう。
 春はまだ、盛りなのだから。