今日1月19日は母親の命日です。
2009年1月19日夜8時過ぎ、
母親は本当に突然とも言えるくらい心の準備もできていないうちに旅立ちました。
死因は急性肝炎。
母親は亡くなる1ヶ月前に地元の病院に入院してました。
病名は忘れてしまいましたけどレントゲンを撮ると肺が真っ白に写ってしまう病気にかかっていました。
病院には約1ヶ月ほど入院して退院したんですけど、
退院後は常に鼻からチューブで酸素を送る機械を付けていなければならないと病院から言われ、
その手配などをしようとしている時でした。
退院から4日後、
母親が腰が痛いと訴えたので弟が入院していた地元の病院に連れて行って診てもらうも特に異常はなし。
その日が土曜日であり他の医療機関は休みのところが多かったですが、
あまりにも腰が痛いと訴えるので土日挟んで明けた月曜日にペインクリニック(痛みを緩和する専門医)に連れていこうとなりました。
でも既にこの時に肝炎の兆候が出ていたわけです。
肝炎が進行すると腰や背中などに痛みが出る時があり、
母親の腰の痛みはまさにそれでした。
しかし自分や弟はただの腰痛だと思っていたので整形外科やペインクリニックに連れて行くとしか思いつきませんでした。
ペインクリニックには自分が連れていったのですが、
紹介状がないと受診できないと突き返され、
そのまま自宅に連れて帰りました。
このペインクリニックに連れて行く日の朝には母親の容態も苦しそうにハァハァと息をしながら半分意識がないような感じに見え、
とりあえず帰ってからベッドに寝かせて弟に連絡を取り、
午後から弟が別の近くの病院に連れて行く事になりました。
この日自分は午後から針灸治療の予約が入っていたので通っている針灸治療院で施術を受け、
その後弟が連れて行った病院に行ってみると母親は救急外来に運ばれ治療を受けていました。
弟に話を聞いたところ最初は整形外科を受診するつもりで待合室にいたところ偶然通りかかった看護師さんが母親の容態を見てこれは大変だと行ってすぐに救急外来に連れてかれたとの事でした。
自分が病院に着いて救急外来の外で待っていたところ医者がやってきて診察にあたりました。
診察後に救急外来の中に呼ばれ話を聞いたところ、
母親は急性の肝炎にかかっていていますぐに治療が必要な状態だと説明を受けました。
この時はまだ楽観的で「原因がわかって良かったね」とか話をしていたんですけど、
その後病室に移されて引き続き治療を受けていました。
この時くらいからなんかただならぬ気配を感じていたんですけど、
夜の7時半過ぎに看護師が心臓が止まったと言って飛び込んできて心臓マッサージを始めました。
その様子に唖然としている時に医師から呼ばれて別室で容態の説明を受けました。
お母さんの肝臓は急激に細胞が壊れていっていて壊れた細胞は元には戻りません。
もう血液検査でも尿毒症の兆候が出ていて残念ながらお母さんは助かりません。
延命治療を続けてほしいと希望するのであれば続けますがどうしますか?と言われ、
もう母親は助からないんだと悟り、
医師には延命治療の中止を申し出ました。
それから数分後に母親の心臓が止まり死亡を確認。
母親は生涯を閉じました。
享年68歳。
死亡宣告を受けた時は人目もはばからず泣きました
。
弟も泣いてました。
色んな思いが次から次へとこみ上げてきて涙が止まりませんでした。
まだまだ母親には親孝行も出来ていなかったし長生きしてほしかったです。
なによりも初孫の顔を見れずに逝ってしまっのは心残りではないかなと今でも思ってます。
その後は葬儀屋を手配して母親を家につれて帰り、
そこからは葬儀屋と葬儀の打ち合わせ、
近所や親戚などへの連絡をしてたりしていて休む暇もありませんでした。
親父が寝たきり状態で喪主を勤める事が出来なかったので長男である自分が全ての事をやったんですけど、
葬儀というのはこんなにも大変なものだとはこの時に知りました。
亡くなった時期が真冬のこの時期で、
毎年この時期には亡くなる人が多いせいなのか火葬場がなかなか空かなくて火葬できたのが4日後でした。
葬式と火葬と済んで納骨まで終わり、
一連の葬儀は終わった後はまだ色々手続きが残っていて、
それらがひと段落したのが母親が亡くなってから1週間後でした。
それまで気を張り詰めていたのが全て終わってプツリと切れたせいか風邪をひいてしまったのを覚えてます。
今になって思うんですけど、
母親という存在は偉大ですね。
だからこれを見ている皆さんに言いたい。
お母さんは大事にしてください。
そして生きているうちにお母さんから大切な事は聴いておいてください。
自分は全然聞いてなかったので後の手続きとかが本当に苦労しました💦
最近は夢にも母親は出でくる事がなくなりましたけど、
たまには出てきてほしいなと思ってます。
夢の中でもいいから会いたいですね…