どうも、寝ても覚めても釣りの事しか考えていない釣師Dです。


おっさんになると「最近の曲は全部同じに聴こえる」って言ってしまいます。


残念ながら私もおっさんなので、ほぼほぼ同じ曲に聴こえてしまいます(笑)


それは何故かと言うと、流行りの曲や新しい曲を受信出来るアンテナが壊れてしまっているからです。


私の好きな音楽はというと迷い無くクラシック音楽だと答えます。


ずっと好きでピアノを弾いていますからね。


では普段クラシックしか聴かないのかと言うとそうでもありません。


ジャズ、民族音楽、ポップスなど他にも何でも聴きますし、好きなミュージシャンはT.M.Revolutionですよ。


西川貴教さん最高です!


音楽が発展してきた歴史はおっさんたちアンテナを壊した積み重ねだと私は思っています(笑)


今回は長々と綴ってますので興味のない方は読み飛ばしてもらっても大丈夫ですよ!


作曲の始まり 


クラシック音楽の歴史的に作曲の始まりは教会からです。


音楽は、昔は歌ですね、祈りの術だったので聖歌からスタートだと思ってもらって結構です。


打楽器や民族音楽からの派生は割愛しますね。


ざっくりと説明します!


教会での歌と言えばグレゴリオ聖歌と呼ばれるものですね。


これは単旋律を皆で歌い上げます。


ハモりとか伴奏は一切ないです。


アカペラというやつですね!


a cappellaと綴り、英語にするとin chapelとなるのです。


つまり教会にて、とか聖堂にて、の意味ですね。


そのまんまです(笑)


そこから若い司祭たちは聖歌にハモりパートを付け始めました。


和音という概念の誕生です。


その時点でおじさんたちは良さを受信出来ません(笑)


和音より1個の方が絶対綺麗じゃん!って言ってそうですよね。


始めの頃はグレゴリオ聖歌の旋律より下の音域で、好きなハモりだったり旋律をどんどん付けていきます。


物足りなくなった若者たちは自分の旋律をメインに持って行き始めます。


おっさんのアンテナは完全に壊れました。


作曲法を広める 


これまで音楽は口伝で受け継がれていましたが、不便だということで楽譜の概念が誕生します。


1本の線から低いか高いか…だんだん増えて今の5線譜に落ち着きます。


楽器を使っての伴奏や演奏もしていきます。


神聖な教会で楽器を使うなんて大事件ですね。


壊れたアンテナのおじさんは卒倒します(笑)


そんなこんなで作曲という概念が誕生したわけです。


作曲法や理論を教えていたのは教会だったんですね。


かの有名なモーツァルトも教会で音楽について学んでいました。


レジェンド・オブ・バロックの誕生 


作曲が始まり偉人が数々生まれます。


ブクステフーデ、モンテヴェルディ、ラモー、クープラン、ヘンデル、ヴィバルディ等々…。


そんな中でもひときわ目立つバロック音楽家と言えば、皆さんご存知バッハですね!


皆さんがバッハと呼ぶのは音楽室の肖像画としても有名なJ.S.Bach、ヨハン・セバスチャン・バッハの事です。


この時代の音楽家というのは作曲、楽器演奏の全てが一流の人だけが名乗れた地位です。


楽器だけ演奏する人は楽師と呼ばれてます。


バッハ一族は音楽一家でした。


息子たちも有名人ですね。


特にC.Ph.E.Bach、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハと末っ子のJ.C.Bach、ヨハン・クリスチャン・バッハが有名です。


子沢山だったんですね。


そうです、パパバッハは絶倫です!


J.S.バッハの何が凄いのか?


それは膨大な曲数を遺したこともありますが、バロック的、古典的な技法を貫いて作曲を続けたことにあります。


バッハも中年を過ぎると世の中の音楽の趣味趣向も変わってきます。


時代は教会音楽から大衆音楽へと変わりつつありました。


息子カールは「親父の音楽は古い!」と末っ子のクリスチャンを世話しながら装飾音、つまり音の飾りをふんだんに付けた自由な形式の華麗様式音楽を作っていきます。


そんな中でもパパバッハは『フーガの技法』というクラシック史上に残る聖典を完成させました。


正に職人です。


ちなみにセバスチャンパパは喧嘩もめちゃくちゃ強かったらしいです(笑)


教会音楽から大衆音楽へ 


セバスチャン・パッパの死後、末っ子のクリスチャンは友人のアーベルと組んで『バッハ=アーベル・コンサート』なるものを立ち上げます。


大衆向けのコンサートの始まりです。


大衆と言ってもそれなりに地位のある人達が対象ですよ。


かの有名なハイドンもここで演奏していますね。


ちなみにクリスチャンはあのモーツァルトにも音楽を教えているんですよ!


クラシック音楽は縦横の繋がりが結構あって面白いです。


この頃になると貴族が宮廷音楽家を雇う時代になってきます。


歴史が動き始めます。


ウィーン古典派というローカル音楽 


オーストリアはウィーンという地で後に『ウィーン古典派』と呼ばれる作曲家達が活躍します。


ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンが代表ですね。


まず外せないのがハイドンです。


自由に飾り付け過ぎた音楽を取り止めて、形式美という規則正しい概念を築きました。


それが『ソナタ形式』です。


ソナタとは元々は器楽曲という意味で幅広く使われていたのですが、『ソナタ形式』という型として確率させました。


これが一気に広がってウィーンで大流行、作曲家たちは挙ってソナタを作曲しました。


貴族たちも音楽家を雇って自分専用のソナタを作曲させます。


モーツァルトもその一人です。


モーツァルトは死ぬまで就職活動をしていました。


今でこそ天才モーツァルトやクラシック音楽の定番なんて言われてますが、悲しいことに当時のヨーロッパで彼の音楽は斬新すぎたのです。


驚異的なテクニック、作曲の速さ、新しい技法に周りがついていけなかったんですね。


可愛らしい曲やリズムの心地好い綺麗な曲が多いモーツァルトですが、それは私たちが良い曲だと受信出来るアンテナがあるからそう思うのです。


当時の人達のアンテナは壊れていました。


そして真にモーツァルト、彼の本性を垣間見るのは短調、マイナー調の曲です。


短調の曲と言えば物悲しいとか暗いというイメージで間違ってませんが、モーツァルトの短調は『狂気』です。


悲しいとか暗いではなく、心がざわつく音楽を遺しています。


ソナタ、協奏曲、交響曲、レクイエム等聴いてみて下さい。


彼の死は謎に包まれています。


何を伝えたかったのでしょうか…。


音楽家の独立 


音楽家の地位は決して高いものではありませんでした。


宮廷に入るのにも音楽家は裏口から、なんてルールがあった時代です。


そんなルール下らない!とぶち壊したのがあのベートーヴェンでした。


貴族の為に曲は作らない、俺自身の音楽を作る。


雇われなくても自分の腕一本でお金を稼ぐという職人音楽家の誕生です。


そしてあの有名な肖像画からも見てとれる、イメージ通りの暴れん坊将軍でした(笑)


毎日のルーティーン、お気に入りのカフェで飲む生卵入り白ワインが在庫切れだとぶちギレて暴れる。


友達と議論して意見が違うとぶちギレて暴れる。


部屋が汚いので探し物が見つからないとぶちギレて暴れた後引っ越す等々…。


勿論売られた喧嘩は全て買います。


ピアノの腕を競い合う時には相手の曲の譜面を逆さまに置いて逆さまに曲を弾きます。


お前の曲なんて後ろから弾いても前から弾いても駄作だということです。


しかも完璧に超絶技巧を駆使して演奏してしまうもんですから相手は涙目です(笑)


そんな暴れん坊ベートーヴェンですが、友達は以外と多かったんですよ。


ぶちギレても後で「さっきはごめんね」って自分から謝りに行くので愛されていました。


弟子たちにぶちギレても「さっきはごめんね」って上下関係なく自分の非を認めて謝ります。


実は素直で綺麗な心の持ち主なんですよね。


交響曲第5番、日本では運命と呼ばれてますね、の様に威圧的な勇ましい曲が多いように感じられるベートーヴェンですが、本人は綺麗な曲の方が好きだったんですよ。


有名どころではソナタ悲壮の第二楽章、田園交響曲、春、など透き通るように美しい旋律を書いています。


そしてベートーヴェン、偉業かつ大事件を起こしてしまいます…。


前述した『ソナタ形式』という作曲技法、ベートーヴェンも好んで使っていました。


そのソナタ形式という枠組みの中で出来ること『全て』をベートーヴェン『ひとりで』やり尽くしてしまいます。


ピアノソナタ32曲で出来ること全てをやり尽くしてしまったのです。


それはもう後の作曲家たちは大変ですよ。


何をやってもベートーヴェンのパクりって言われてしまいますからね。


後の作曲家たちもソナタは作ってますが、曲数はかなり少なかったり、賛否ありますがソナタ形式でなかったりします。


お散歩大好きベートーヴェン、常にポケットにペンとメモ五線帳を忍ばせて曲のスケッチを多数遺しています。


その中には幻の交響曲第10番もありました。



さて、長くなってしまいましたが続きは気が向いた時に綴りたいと思います。