自分がそんな状況なら、当然すると思われる行動。
例えば、「ここがどこかは分からない。」「なんで自分がここにいるのか?どうしても分からない。」その状況なら、とりあえず知っている場所、安心できる場所、自分がそこに居ることに違和感がない場所に、どうにかして行こうとする。多分そうする。
そうしようとした時に、なんかよう知らん兄ちゃんが、姉ちゃんが、ニコニコしながら、「そちらには行かないで、ここにいて下さいね。」的な言葉を投げかけてきたら、僕はきっと、ほっといてくれ、俺は俺の知っている所に行くねん。となると思う。正確には、そうなるかは分からないけど、そっち方向の心の動きをすると思う。
そうしようとすることって、当然、人として普通の感じの行動の選択だと思いますよね?ね。
けど、介護の世界では、そういう行動を「帰宅願望」とか「徘徊」とか。そんな、普段の生活で、日常的に出会う相手には使用しない言葉を用いて、自分たちの感じ方なんかに頼らずに、というかそんな思考にさえならずに、どこかの誰かが言ってた、なんとなく都合よく、相手の行動を一つの専門用語もどきみたいな、カシコのふりができる「帰宅願望」とか「徘徊」なんかで、画一的に当てはめて使用してしまう。そして、その言葉が使用された時点で、「帰宅願望」という認知症の人がよく起こす行動、「徘徊」という認知症の人がよく起こす行動。そんな感じで、軽く片付けてしまうことがある。介護の仕事にこなれてきた人ほど、そうなりやすのかな。もちろん、そうならない人もいるけど。
何が言いたいかっていうと、なんで目の前の人が、そうなっているかっていうことが、ぼやっとでも分かりかけていて、その上でその人たちと接することができているのと。上に書いたように、認知症の人がよく起こす行動として、過去の判例や症例、どこかの誰かが経験した話に出てくる人と、目の前の人が同じ枠でくくられてしまって、語られたり、接したりしてしまうことの違いが、だんだんだんだん分からなくなってしまっていく負のスパイラルに陥ってしまうという悲劇が、介護の世界では起こっているような気がして、空しく腹立たしく思うんです。
そこに解決策がなくても、目の前にいる人たちと付き合っていくためには、こちらも壊れずに付き合うには、そんな理解の仕方では、なかなか難しいじゃないかなって思うんです。お互いにね。
言葉遊びが、絶対悪じゃないけど、言葉遊びしかできない人たちが増えて、目の前に人がいないのに、その状況で介護を語る人が増えて、なんか爺さん婆さんが、特別なもののようになることって、良くも悪くも特別なものになることって、なんか気持ち悪いなって思うんですけどね。
相手のこと、目の前の人のことが理解できてないのに、そんな特別なものだと思ってしまっている人たちに「尊厳」を持ってなんて・・増々ややこしくなるやろ。「いや、あの人とおるのは、俺には無理やって」「この人とは合わないから、俺は止めとくわ」って言えるほうが、よっぽど普通のような気もするし。そう言える状況のほうが、お互いの為でもある。
勝手に作り上げた「善」と「悪」のバランスが悪すぎるねんて。
だから疲弊する人はどんどん疲弊するし、よくわからんキレイゴトが持ってくるストレスに潰されて、へんなことしたりしてまうと思うんですけど。
もっと、普通にできる世界になったら、爺さん婆さんだけじゃなくて、そこで働く人たちや、家族の人も救われると思うけど・・大袈裟かな?
どうなんかな・・少なくとも僕はそう思っています。