こんにちは、こころの湖水です。

今日、「楽に生きたい」と思いました。受験期も思っていました。受験期のほうがはるかに強く思っていましたが。

受験期の終盤、「解放されたい」と強く願っていました。もう楽になりたい。正直、最後のほうは行く大学なんてどうでもよかったです。完全にどうでもいいというわけではないのですが。あんなにやったのにどうせ落ちる。どう考えても落ちるとしか思えない。実際、落ちました。自分が解放された後に大学でやりたいと思っていたことはその大学でないとできないことではなかったし。正直、Fランと呼ばれるところに行ったっていいかなって。大学とかどうでもよくないかって。別に企業とかに入るなら大学は関係あるけど、Fランに行ったって道が閉ざされているわけではないし。公務員になればいいじゃないか。あまりいい職につけなくても、行った先でやれることをやればいいんじゃないか。別に工場勤務とかだって、お金はもらえないけど残業とかないでしょ。時間はあるでしょ。だったら土日は図書館にこもって本を読んだり、散歩をしたり、人生についての考えをじっくり深めたり、お金がかからない素晴らしい活動なんていくらでもあるのだから、それをやればいいじゃないかと思いました。工場の単純作業でマインドフルネスになれば、実質瞑想の修行みたいになって人間性も磨かれるんじゃないかとか思っていました。

ちなみに、前期は落ちましたが後期は国公立に合格することができました。後期は私立も受けましたが、国公立に合格できて本当に良かったと思います。周りの人もみんないい人で良いご縁に恵まれたなと思ったし、受験期はどうでもいいと思っていても、実際大学生になってみると学歴コンプレックスをかなり感じているので、本当に私立に行くことにならなくてよかったと思います。この国公立も奇跡的に受かったのですがね。前期落ち面してるけど、周りのみんなのほうが頭いいし、共テだって断然周りの子たちのほうが取れてるし。頭いい人面してるけど。高校の偏差値は学部の中で一番だから、それで頭いいと思いたがっている。アイデンティティが欲しいのです。

 

なんてつまらないことにこだわっているのだろうと、書いていても思います。まあ、話がそれましたが、言いたかったことは解放されたいと思っている。そうして今大学生になって解放された。しかし、英語の校外試験があって、その試験で指定された点数以上を取らないと単位をもらえないのです。私はその点数を取れる実力がありません。その試験まで時間がありません。もう嫌だ。せっかく大学生になったんだからほっといてくれと思います。これは必修なので、単位がもらえないとかなりまずいことになります。本当にしんどい。

 

高校時代に苦労なんかし尽くしたし、もう疲れたんです。もういいよ。好きにやらせてくれ。そう思います。一生分の苦労をした。あとはとんとん拍子で自由に生きていけなければ、苦労した割に合いません。

 

まあ、どう生きたいかということを探していたところですが、楽に生きたいな。好き勝手生きたい。ただひたすらに日の光をのびのびと浴びて幸せに生きていきたい。自由に生きたい。好きなことをのんびりやって、人生について追求し続けながら生きていきたい。いろんな世界を見てみたい。人と関わる生き方も、いいなと思いました。しかし、人と関わることでガチガチに縛られ、義務ばかり発生する生き方はごめんです。ほっといてほしい。気の合う人たちと一緒に、のんびり愛し合って生きていきたい。平和に笑い合って、のんびり好きなように生きていきたい。解放されて生きたい。もう疲れたから。

 

しかし、ニーチェ曰く、ただ楽に生きたいと思って生きる生き方は「末人」だそうですね。末人には決してなってはならないそうです。末人ではなく、高みを目指す「超人」になる必要があるのだそうです。

 

これはYouTubeで知っただけの浅い知識なので実際にニーチェの本を読んでみる必要があるのですが、まあ、一応私が今思っている考え方、こうなりたいと願ってしまっている生き方はあまりよくないのですかね。ニーチェの本を読んでみないと何とも言えませんが。最終的にはその思想を説いたニーチェ自身が精神崩壊をしてしまったそうですし、どこまで参考にしたらいいのか分かりませんがね。

それに、余裕がないから解放されたいと願うのではないでしょうか。高みを目指すというのは、ある程度余裕があるからだと思いますよ。末人も超人も、種の繁栄に役立ちそうな方向へ進んでいるだけで、一緒ではないでしょうか。何度も言いますがニーチェの思想はただのネットの聞きかじりなので今度ちゃんとニーチェを読みます。

 

ただ、解放されたいといったって、自分を縛る鎖がまったくなくなってしまったら廃人のようになってしまうと思います。実際にそうなってしまったことがありました。何にも縛られていない状況が、最もがんじがらめにされている状況であると感じました。

それは、幸福という鎖さえ手放してしまったからかな。幸せになりたいとさえ願っていれば、鎖が完全になくなることはないのでしょうか。縛られたい鎖だけから縛られて、縛られたくない鎖からは縛られないのが最もいいのでしょうかね。でも、そんなこと簡単にできるものでもない。そうはいってもその状況を目指すことには価値があると思います。しかし、そういう状態というのは好きに生きるということではないでしょうか。楽とはちょっと違うかな。でも言いたいことはそういうことです。きついだけの義務、それをやらないとひどい目にあうぞと脅されてしんどい目を見ながらなんとかこなしていくばかりの義務なんかに縛られず、好きなことを思い切りやって生きていきたいのです。理想論すぎるかな。まずは理想を立てることも大事だと思いますよ。

 

どうしよう。私はどう生きていったらいいのかな。とりあえずぼんやりとした感覚を追求し、具体化していきましょう。また今度それをブログにします。