80年代青春歌謡365アーティスト365曲 vol.318
もしもピアノが弾けたなら 西田敏行
作詞 阿久悠
作曲 坂田晃一
編曲 坂田晃一
発売 1981年4月
自らが主演した人気ドラマの主題歌を自身が歌い大ヒット、俳優だけでなく歌手としての西田敏行の運命を大きく変えた一曲に
西田敏行の歌手デビューは実は1977年5月発売の『木綿の愛情』という曲で、そのあとも何枚か発売してはいたものの、セールスには結びつきませんでした。『もしもピアノが弾けたなら』は6枚目でようやくヒットしたシングルレコードということになります。それも当初はB面が『もしもピアノが弾けたなら』だったのが、好評につき入れ替わったという経緯があるようです。
当時西田敏行は34歳。今思えば結構若かったのだと思いますが、俳優としては人気急上昇期。1980年に始まった主演ドラマ『池中玄太80キロ』が人気を呼び、作られた続編『池中玄太80キロ パートⅡ』の挿入歌『もしもピアノが弾けたなら』を自身が歌ったのです。するとこれが主題歌に格上げとなり、望外であったであろう大ヒットということで、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いの西田敏行だったのです。オリコン最高4位で売上51.7万枚という実績をあげ、この曲で紅白歌合戦に初出場することにもなったというから、たいしたものです。
ただ当時中学生であった私は、この曲がなぜここまでヒットするのかピンとこない部分は正直ありました。けっして派手な曲ではなく、どちらかというとシンプル。これといった強力なフレーズがあるようにも思えなかったし、西田敏行もお世辞にもイケメン俳優とはいえない朴訥とした風貌。歌も抜群というわけでありません。でも結局、それが良かったのでしょう。親しみのある容貌で、不器用な男のせつない恋心を綴った歌を、不器用そうにとつとつと唄う、そんな歌手と歌唱と歌が見事な調和によって、俳優ならではのなんともいえない味わいがにじみ出て、ヒットに結びついたのでしょう。
作曲は坂田晃一ですが、杉田かおる『鳥の詩』で少し触れています。一方の作詞は阿久悠。これが前回紹介した『いちごがポロリ』と同じ作詞家というのが凄いところではありますが、このあたりはさすが一世を風靡した作詞家というところでしょう。
《もしもピアノが弾けたなら 思いのすべてを歌にして きみに伝えることだろう》
《もしもピアノが弾けたなら 小さな灯りを一つつけ きみに聴かせることだろう》
とピアノが弾けたら君にあんなことをしてあげたい、こんなことをしてあげたいといろいろ空想を巡らすのですが、悲しいかな
《だけどぼくにはピアノがない きみに聴かせる腕もない》
ということで
《伝える言葉が残される》《聴かせる夢さえ遠ざかる》
と、思いを伝えることもできずに過ぎてしまうわけです。ピアノに例えてはいますが、要するに自分には君に自慢できる特技も財産も自信も何にもないので、君に思いを伝えることもできないということを歌っているのではないでしょうかね。そう考えると、この曲が多くの人々の心に響いたということもよくわかるのです。
西田敏行にとっては唯一のヒット曲といえますが、それが後世にも歌い継がれる名曲になったわけで、この一曲だけでも歌手西田敏行は大成功といってもいいでしょう。この曲のヒットの後はさらに西田敏行は大俳優へと昇り詰めていくわけで、その活躍は今更いうまでもありません。