80年代青春歌謡365アーティスト365曲 vol.281

 

晴れのちBLUE BOY  沢田研二

作詞 銀色夏生

作曲 大沢誉志幸

編曲 大村雅朗

発売 19835

 

 

 

大衆受けなど無視して、カッコよさだけをとことんまで追求、ジュリーだからこそシングルとして発売できた攻めた一曲

 

 1980年代の沢田研二から何を選択しようかとかなり迷ったのですが、結果的に選んだのが『晴れのちBLUE BOY』です。この曲を出した1983年は、1970年代から大スターとして歌謡界に君臨し、ヒット曲を連発してきた沢田研二のパワーに、いよいよ陰りが見え始めた時期にもなります。沢田研二にとって、最後のオリコントップ10入りの曲が、19829月発売の6番目のユ・ウ・ウ・ツ』6位でして、売上枚数的に20万枚を超えた最後の曲(25.6万枚)でもありました。その直前の19825月発売『おまえにチェックイン』も最高8位、27.4万枚を記録していますので、1982年までは、まだまだ一線で活躍していたのですが、19831月発売の『背中まで45分』が最高20位、売上8.7万枚と急激にダウン。そんな状況の中で出したのが『晴れのちBLUE BOY』でした。

 

 で、この『晴れのちBLUE BOY』を最初に聴いたときは、ぶったまげましたね。沢田研二、かなり攻めて来たなと。どう聴いても万人受けするような曲ではないですし、なぜこれをシングルとして選んだのかと思うくらいに、思い切った曲です。ただ考えてみれば、直前の『背中まで45分』もタイプは全く違いますが、かなり冒険的な曲なのですよね。作詞作曲は井上陽水でしたが、特に歌詞が独特で、まあ、大人の世界ですね。それに続いての『晴れのちBLUE BOY』だったのですが、この作曲は大沢誉志幸。当時新進アーティストとして売り出し中の作曲家を敢えて起用したわけですが、この流れを見ていると1983年の前半は今まで組んだことのない作家を起用して、それまでの沢田研二の王道から外れ、新しい沢田研二で攻めてみようかと、そんな姿勢がうかがえました。

 

 そんな『晴れのちBLUE BOY』について、万人受けしないといいましたが、ただこれがとてつもなくかっこいい曲なのです。曲、アレンジ、歌詞、歌唱、どれをとっても当時の日本の歌謡曲ではなかったようなものになっていて、ある意味斬新で衝撃的でした。日本の歌謡界ではまだなじみのなかったジャングルビートを取り入れ、メロディーなんかよりもとにかくノリ重視。万人受けしないだろうといったのは、当時の日本のヒット曲と比べて、メロディーが単調に聴こえてしまうからです。ラップなんか当然受け入れられていなかった時代ですし、突然このタイプの歌が、チャート上位に食い込んでくるとは、なかなか思えませんでした。それでも敢えてこの曲をシングルとして出したということは、沢田研二としても新しい挑戦だったでしょうし、日本の歌謡界、音楽界に新しいジャンルを切り開いていこうという気概さえ感じられたものです。

 

ビートだけでなく、歌詞にも“ジャングルという言葉が出てきますが、

《青いシーツのジャングルで 後ずさりしすぎたライオン》

といきなり意味不明なフレーズで始まります。そのあとはとにかく独特なフレーズばかりで

《ブラインドの細い空に フワリとブラウスゆれてる》

《あの娘はラジオつけっぱなしで あの娘は窓から出てって》

《フライパンはハムエッグより僕の頭とよくあった》

《言いたいことはヤシの実の中 僕は花火よりひとりぼっち》

…と、まあよく分からないけれど、インパクトのある歌詞が続いています。これを「はっ、なにこれ?」と思うか「よくわかんないけど、かっこいいじゃん」と思うか、後者が多いことに賭けたのかもしれませんが、結局『晴れのちBLUE BOY』はオリコン最高11位と、惜しくもトップ10返り咲きは果たせず、売上も9.5万枚とふるいませんでした。

 

その後は、シングルを出すたびに順位は下降し、ヒットチャートの上位からは姿を消していった沢田研二。同時期に活躍した郷ひろみが未だに郷ひろみを維持しているのに対して、沢田研二はジュリーをどこか諦めてしまったようなところが感じられるのが寂しいところです。ただ映画などで見せる枯れた感じの年相応のジュリーもまたそれはそれでいい感じではありますが。

 

最後に、沢田研二のシングル曲で好きなベスト10を選んでみました。

1 OH!ギャル

2 ダーリング

3 麗人 

4 おまえにチェックイン  

5 カサブランカ・ダンディ

6 勝手にしやがれ

7 晴れのちBLUE BOY 

8 危険なふたり

9 コバルトの季節の中で

10  ヤマトより愛をこめて

=80年代発売