80年代青春歌謡365アーティスト365曲 vol.137
俺ら東京さ行ぐだ 吉幾三
作詞 吉幾三
作曲 吉幾三
編曲 吉幾三
発売 1984年11月
日本におけるラップ・ヒット曲の元祖、演歌開眼前のコミックソング・シンガー吉幾三としての集大成
吉幾三が『雪國』(1986年2月、オリコン最高1位)、『酒よ』(1988年9月、オリコン最高3位)と正攻法の演歌を続けてヒットさせて、なまりのある「ちょっと元気な」正統派の演歌シンガー&ソングライターという立ち位置になってから久しくなりますが、そもそもは名前からして「よし、行くぞー」のとおり、コミックソング・シンガーとしてのデビューでした。最初のヒットは1977年11月に発売した『俺はぜったい!プレスリー』で、これがオリコン最高25位、売上12.1万枚と、そこそこ話題を呼んだのですが、そこからしばらくは鳴かず飛ばず。そして7年ぶりに再び脚光を浴び、吉幾三の名前を日本中に知らしめることになった大ヒット曲が『俺ら東京さ行ぐだ』でした。
この『俺ら東京さ行ぐだ』は、青森県出身である吉幾三の訛りを生かし、東北弁で田舎の惨状をデフォルメして自虐的に歌った作品になっていますが、その田舎っぺ丸出しのコミカルな歌詞を、当時としては斬新なラップ調の歌謡曲メロディーに乗せたことで、それまでに聴いたことのないようなインパクトを与えることに成功したのです。当時“ラップ”という言葉自体がなく、この曲を「ラップ」ソングと呼ぶことはなかったのですが、今からすると、『俺ら東京さ行ぐだ』こそが日本音楽界におけるラップの元祖ということができるのではないでしょうか。とにかくこの曲は大いに受けて、オリコン最高4位、売上35.1万枚のヒットとなり、毎週のようにテレビの音楽番組で歌い、顔と名前を売り出したのです。ただその裏で、演歌の作家としての才能も見せ始め、千昌夫の『津軽平野』(1984年3月)では作詞作曲を担当し、売上13.2万枚というヒットに繋がっていたということも、実はとしてあったわけです。(それが後の『雪國』『酒よ』に繋がるわけですね。)
『俺ら東京さ行ぐだ』は誰が聴いても分かる、大人から子供までみんなが楽しめる歌で、そのあたりがヒットに繋がったのでしょう。替え歌もいろいろと作られたりもしましたしね。架空の“ド”田舎の村のあまりにもの文明から遠ざかった生活ぶりを歌にしていて、当時としてもこんな田舎は日本にないだろうというぐらいでしたが、だからこそ、誰もが笑えたというのもあるでしょう、実際にありそうなレベルですと、反感を買いかねないですからね。テレビ、ラジオ、自動車、ピアノ、バー、電話、ガス、ギター、ステレオ、喫茶、薬屋、映画、ディスコ、新聞、雑誌等々一般的な町では当たり前にありそうな物がないと訴える一方、牛、数珠を持った爺さん婆さん、紙芝居、回覧板とあるものを挙げてオチに使い、実はいろいろ構成も考えられる詩で、作詞家としての才能も感じさせます。これを極端な訛りで歌うわけで、東北は青森出身という自己のプロフィールをも最大限に生かしたキャラクターの売り込みもうまくいき、結果として吉幾三というシンガー・ソングライターの大々的なプロモーションに成功したわけです。
その後単なる色物歌手から180度転換、自身で作詞作曲も行う本格的演歌歌手としての地位を築き上げていくわけですが、それもこの『俺ら東京さ行ぐだ』のヒットがなかったら、叶わなかった可能性もあるわけで、そういったことでも吉幾三の歌手人生において、大きな意味を持つ一曲となったのでした。