80年代青春歌謡365アーティスト365曲 vol.86

 

ある愛の詩  倉沢淳美

作詞 康珍化

作曲 馬飼野康二

編曲 馬飼野康二

発売 19847

 

 

 

自分のプロフィールを並べたデビュー曲の次は、名作映画をズラズラ並べた歌詞、わらべ次女の珍作第2弾シングル

 

 のぞみ、かなえ、たまえのわらべ3人姉妹の「かなえ」ちゃんとして芸能界デビュー。わらべとしては『めだかの兄妹』(198212)『もしも明日が…。』(198312)と大ヒット曲を連発。途中、いわゆる『ニャンニャン事件』で3人姉妹が2人姉妹になったものの、次第にソロデビューの気運が盛り上がり、19843月に1stソロシングル『プロフィール』の発売と相成ったのです。デビュー曲『プロフィール』は生年月日、年齢から身長、3サイズ(結局内緒でしたが)まで自分のプロフィールをつらつらと並べたあとに、サビで自分の名前〈ATSUMI〉を連呼するという、松本伊代『センチメンタル・ジャーニー』の上を行く自己紹介ソング。まあアイドルらしいといってしまえばアイドルらしいのですが、変な曲には違いないでしょう。それでもオリコン最高4位、売上枚数22.8万枚と、なかなかのヒットになったのです。それに気を良くして、ジャンプアップを狙ったのが同じ年の7月に出した『ある愛の詩』でした。

 

 映画をある程度知っていれば、『ある愛の詩』と聞くと、ピンとくるかもしれませんが、これ、有名な恋愛映画の邦題なのですよね。そのタイトルを拝借しただけならば、まあ、たまにある手だなと思うだけなのですが、この曲、歌詞の中で名作映画をずらずらといくつも並べているのです。《ある愛の詩 太陽がいっぱい》《ロッキー ペーパー・ムーン アメリカン・グラフィティ 卒業 ロミオとジュリエット お熱いのがお好き》《ジョーズ スーパーマン クレイマー・クレイマー E.T 未知との遭遇》と計13作品のタイトルが使われているのです。ではこれらが効果的に何かに掛けられていたり、言葉遊びになっているのかというと、実際に他の言葉に掛けられているのは《太陽がいっぱい わたしの心はあなたでいっぱい》《お熱いのがお好き? わたしはあなたといるのが大好き》の2か所のみ。まったく意味のないズラズラが11曲分。そういった意味ではかなりの珍作といえるでしょう。

 

 さらにいうと、取り上げている映画の選択がどうなのでしょうか。1967年生まれの当時17才倉沢淳美のターゲットは、基本的には同世代のティーンだと思うのですが、その世代に訴える映画としては、ラインアップが古すぎます。日本公開年をそれぞれ記しますと、「ある愛の詩」=1971年、「太陽がいっぱい」=1960年、「ロッキー」=1977年、「ペーパー・ムーン」=1974年、「アメリカン・グラフィティ」=1974年、「卒業」=1968年、「ロミオとジュリエット」=1968年、「お熱いのがお好き」1959年、「ジョーズ」=1975年、「スーパーマン」=1979年、「クレイマー・クレイマー」=1980年、「E.T=1982年、「未知との遭遇」=1978年となります。当時はまだレンタルビデオも一般的ではない時代、このあたりの名作を網羅しているティーンがいったいどのくらいいたでしょうか。公開年と映画の性質を考えると「E.T」「スーパーマン」は観ていた当時のティーンは多かったでしょうし、「ロッキー」「ジョーズ」「未知との遭遇」も観てはなくても知っていた中高生は多いと思います。ただ「太陽がいっぱい」「お熱いのがお好き」あたりになると、彼ら(僕らでもあるのですが…)の生まれるずっと前の映画ですからね。「クレイマー・クレイマー」や「ペーパー・ムーン」も中高生は観ないでしょう。そう考えると、選択した映画のタイトルは失敗だったと思います。実際、当時ティーンであった私にも、ピンときませんでした。

 

 こんな珍曲の作詞は誰かというと、康珍化なのです。もちろん多数のヒット曲の作詞家として有名で、杏里『悲しみが止まらない』、上田正樹『悲しい色やね』KinKi Kids『雨のMelody』『全部だきしめて』、小泉今日子『渚のはいから人魚』『ヤマトナデシコ七変化』、郷ひろみGOLDFINGER '99』『言えないよ』、近藤真彦『泣いてみりゃいいじゃん』『あぁ、グッと』、少年隊『君だけに』、杉山清貴&オメガトライブ『ふたりの夏物語』『君のハートはマリンブルー』、高橋真梨子『桃色吐息』、チェッカーズ『ギザギザハートの子守唄』『神様ヘルプ!、中森明菜『北ウイング』『ミ・アモーレ』、中山美穂『人魚姫』『ROSÉCOLOR、原田知世『天国にいちばん近い島』『愛情物語』、光GENJI『剣の舞』、堀ちえみ『稲妻パラダイス』、南野陽子『接近(アプローチ)』『涙はどこへいったの』…と、挙げればきりがないですね。その康珍化は1953年生まれですから、こういった映画のチョイスになってしまったのかなとは思います。

 

 この曲の失敗は、セールスにも明確に表れていて、オリコン最高17位、売上枚数6.5万枚と惨敗。さすがに2作連続の珍作には、ファンもついてこられなかったのでしょう。以後は再浮上することなく、ソロ歌手倉沢淳美としてはデビュー曲がキャリア最高で終わってしまったのでした。

 

 倉沢淳美はその後芸能界にこだわることなく、外国人のかたと結婚して海外移住。今でも時々、海外での幸せそうな生活ぶりを紹介するために、番組の企画で登場することがあり、元気そうな姿を見るたびに、もうちょっと早いうちにちゃんとした歌を歌わせていたらどうなったかなと、思ったりもします。