80年代青春歌謡365アーティスト365曲 vol.55
私は里歌ちゃん ニャンギラス
作詞 秋元康
作曲 見岳章
編曲 見岳章
発売 1986年4月
とにかく勢いだけで出しちゃった、おニャン子クラブから誕生した4人組の色物ユニットによるおちゃらけソング
おニャン子クラブが最も勢いのあった1986年前半、その勢いついでに出してしまったような4人組のユニットによるシングル曲がこの『私は里歌ちゃん』です。メンバー4人はまだソロデビューを果たしていなかった立見里歌、樹原亜紀、名越美香、白石麻子の4人。どうも番組の中で、立見里歌、樹原亜紀、名越美香の3人がレコードを出すや否やという論争があったそうで、その流れでのリリースとなったようです。ただこのメンバー、立見里歌、樹原亜紀、名越美香の3人は必ずしも人気の高いメンバーというわけではなく、どちらかというとオチャラケ担当。言ってしまえば色物ユニットだったのです。ただそれではなかなかレコードも売れないだろうと、一人加わったのが白石麻子でした。3人に比べると正統派の存在で、実際にも人気もあって、ソロデビューの話もあったときいています。
そんな4人でしたが、これがまた歌が下手なんですよね。まあ、歌が下手でもおニャン子からソロデビューした人はたくさんいますから、取り立てて特別というわけではないのですが、こう言ってはなんなのですが、可愛い子の歌が下手でも、顔でデビューさせたのだなと納得させられても、ニャンギラスの場合はねぇ…、なんとも、はや。ところがところが、これがまたオリコン1位を簡単に獲得してしまうというのです。このことは当時の状況をはっきりと物語っていまして、この時期はおニャン子から出すシングルは1位がもはやノルマと化していたようなところがあって、1位が当たり前だったのです。
そもそもこの曲、タイトルからしてふざけています。『私は里歌ちゃん』の里歌ちゃんは、要するに立見里歌自身のこと。作詞が秋元康ですから、まあ今考えればやりかねないことではあり、実際にこの25年後に『上からマリコ』なんて歌を出していますからね。ただ冷静に考えてみると、歌が激烈に下手な色物ユニットが普通の歌なんて歌えるわけもなく、こういったオチャラケた歌で遊ぶでもしないと仕方なかったのでしょう。与謝野晶子は知らない、ドップラー効果はしらない、憂鬱という字は書けない(むしろかける人の方が少ないとは思いますが)、要するにお勉強が苦手な里歌ちゃんだけども、明るく元気に生きてるのよ、とちょっと自虐的な歌なのです。こんなので、まさか1位をとるとは、と思うぐらいのふざけた歌なのですが、これで1位を取ってしまったばかりに、このあとにシングルを出すメンバーは、相当のプレッシャーになったのではないでしょうか。
作曲を担当したのは見岳章。彼は『すみれ September Love』が1982年にヒットした一風堂のメンバーで、解散後作曲家・編曲家としての活動に軸足を移していました。『すみれ September Love』もちょっとへんてこりんな歌だったので、もしかするとこの曲にも違和感がなかったのかもしれません。他のおニャン子関連でも、おニャン子クラブ『恋はくえすちょん』、城之内早苗『あじさい橋』、ゆうゆ『ついて行けない -がんばれボーイフレンド-』を作曲していますし、とんねるず『雨の西麻布』『歌謡曲』『やぶさかでない』なども手掛けています。コミックソングか、演歌か、そんな極端なラインアップとなっています。ただ見岳章については、なんといっても美空ひばり『川の流れのように』という名曲を作曲しているというのが、キャリアの中でも断然に光り輝いています。この一曲に対して、他のすべての曲を全部足しても勝てないようなほどの断トツの仕事といっても過言ではないほどですが、その『川の流れのように』と『私は里歌ちゃん』の両曲の作詞・作曲の組み合わせが全く同じというのも、なんとも面白いところですね。
さてこの後ニャンギラスは第2弾シングルも、2か月後の1986年6月に『自分でゆーのもなんですけれど』をリリースして、これもオリコン1位を獲得しました。もっとも立見里歌ソロとしても、1987年3月に『そんなつもりじゃなかったのに』という曲を出していたのですが、この時期はすでにおニャン子なら誰もが1位をとれる状況ではなくなっており、オリコン最高34位という、残念な結果で終わっています。