当時のSC(SurfingClassic)には毎号後半にジャック天野のコラム「Grapevine」があり楽しみにしていた。これはいわば業界の裏話のようなもので、今と違い極端に情報の少なかった当時、伊良湖から遠く離れた湘南情報の貴重な情報源だった。今読み直しても面白い、ちょっと辛口コラムだね、それでは1984、AUGUSTからお楽しみ下さい。

「SCがはじまって映画が出来るまでの4年間にオリジナルのスタッフすべてが去っていった。トビウオを釣るのと同じで、雑誌の仕事というのは人のやる仕事ではない。ジェリー・ロペスがその仕事をさして「フルタイム・ジョブ以上のきつい仕事」と言ったように、これは言ってみれば自分の命を縮めてるようなものだ。そのうえ映画まで持ち込まれては、ギブアップもいたしかたないところかもしれない。SCのもとスタッフ・フォトグラファーの畠山芳久も試写会に駆けつけた一人だった。映画をみた畠山はダン・マーケルの水中撮影のフレーミングの悪さを指摘して、となりの市川武昌に「本来ならお前もあそこにいたんだよ」。と言われて黙ってしまった。たしかにフレーミングの悪いところが目立った。しかし誰がそれを言えるのか。ショーン・トムソンとラビット・バーソロミューをパダンパダンに呼んでフリーライドを撮ってるのではない。蛸操がバックドアでテイクオフしたら女の子にドロップインされた。その女の子を撮影していたマーケルに蛸がおこられたというくらいだ。マーケルは添田の写真マウントにいまだにジャパンサーファーと書いて送ってくる。ましてや久我孝男も知らなければ糟谷修自も知らない。彼らの世界から見ればまださほどホットではない。玄人であるはずの畠山にそれがわからないようなら、これはだいぶヤキがまわったというほかなかろう。さていよいよ4月25日藤沢市民会館大ホールのオープニングショーの日がやってきた。グレッグ・マクギリバリーは名作「ファイブ・サマー・ストーリーズ」のオープニングの日、テイク・アップ・リール(フィルムをまき取るレール)を忘れフィルムは床にたれっ放しだったというエピソードが残っているが、石井秀明はフィルムを辻堂のジャランジャランに忘れてきてしまった。同じく昼食にジャランジャランに立ち寄った添田博道も、ティツシュにくるんだいれ歯をテーブルに忘れてしまい、それを店の女の子がゴミと間違えて捨ててしまったから大変、ともに無事に戻ったから大事に至らずに済んだものの、ふたりは一体なにを考えてるのか知れたものではない。ともかくフィルムも返り、添田博道・坂本昇・市川武昌・抱井保徳・マメ増田・金子一則・戸田友康・チロ鈴木らが全員アジアン・パラダイスのTシャツを着て舞台に立つと、石井秀明とディック・ホールが短くあいさつし、映画ははじまった。試写会同様拍手のうちに映画が終わると、今度はあとかたずけである。タバコの吸がらが一本落ちていてそれがジュータンを焦がしたということで伊東満の親せきだと名乗るホールの関係者が石井をつかまえ30分ほど説教すれば、実はそのタバコは席からして添田が吸ってたタバコだということがわかり、さすがに皆で笑ってしまった。張りつめた緊張感みなぎりオープニングショーだった。29日の天皇誕生日の日曜日も開場の6時前から長蛇の列となり、一番最初に入場したのは金子一則の父親だったという熱の入りよう。もっともこの日は他の選手が新島へ発ったあととあって、金子のワンマンショーのようなもの。両親やファンが花束を持って来れば、栃木からいとこの女の子まで一則の晴れ姿をひと目見ようと駆けつけた。オープニングの2日間で2千人を動員し市民会館をアッといわせた「アジアン・パラダイス」だったが、それはまだ序の口。連休明けの9・10日はウィークディにもかかわらず東京九段会館に3千人の人波が押し寄せ、3階客席にも立ち見が出るほど。5月の初旬だというのにエアコン全開にしてもうだるような暑さに冷えた缶ビールの売れたことといったらなかった。終了後ビールのあき缶が山になったが、これはホールが売ったもの。なんの文句もなかった。とくに九段会館の2日目には糟谷修自に花束が六本木のゴトウ花店より届き、1日目にも増して盛り上がり「アジアン・パラダイス」とともにサーフィン映画のブームが帰ってきたとは波乗り映画の殿堂九段会館の話。連休を八丈の南国ホテルで一週間みっちり静養した石井秀明とディツク・ホールは、10日九段の上映を済ませると、翌11日早朝、今度は京都にむけて旅立ったが、東名高速は途中11ヶ所の工事により京都着が大幅に遅れてしまった。デイック・ホールによれば、シドニーとブリスベンを結ぶオーストラリアのハイウェイでさえ、工事前の東名高速ほどには良くない。見てると道路工事というのは、まず道路をこわすことから始まる。道路をこわしてなおして、渋滞させてそのうえ金をとる。フリーウエーの発達した外国人にはそうしてもこれが理解できないのだ。ところが6月6日沼津市民文化センターの時はもっとひどかった。東京沼津間わずか百余キロの間で10ヶ所も工事で渋滞させるという魂胆まったく理解に苦しむ。ともかく関西公演も京都・大阪・堺の3ヶ所で2千5百人を集め、すべての会場で「アジアン・パラダイス」はサーフィン映画の興業記録を打ちたてた。すでに観客のなかには各地を転々とし5回6回と映画を見てる熱狂的ファンがいることも事実なら、九段会館の初日には松葉づえをついて病院から抜け出してきた人もいたのにはおどろいた。4月25日藤沢市民会館から5月30日豊島公会堂まで9回の公演で第一回目の上映日程を終えて1万人の観客動員が、自主制作自主上映の映画のすべり出しとしては大成功と言わなければならない。しかし当分の間は時流に反してビデオを作らないという製作者の意図は、逆に足を使って全国を行脚するという意志のあらわれであり、そこに一人でも見たいという人がいれば、「アジアン・パラダイス」はそこへ行って上映するという意気込みである。ところで藤沢市民会館の初日、伊豆から映画を見に来た渡辺文好が、グラジガンはともかくパダンはイージーだから自分ならもっとうまくすべれると語ったという。それはまた映画「アジアン・パラダイス」を見に来た多くのエリートファン達の純粋な疑問だったかも知れない。しかし波乗りでおよそ一番大事なことといえば、その時にそこに居ることである。フーはそもそもグラジガンのオリジナル・メンバーでありながら、それをキャンセルして同じ時ヌサ・レンボーガンにいたのである。フーがはたしてその時どれだけすべれたか、それを語ること自体無意味である。なぜならその時は二度と帰ってこないからだ。しかしかりに今度またチャンスがあった時は、その時こそしっかりチャンスをつかめばいいのだ。   ジャック天野」


SURFINGCLASSIC


July 03, 2009