私には伯父がいました。


いえ、今もいます。
それは次兄ですが。


母の、兄


母は6人兄弟の真ん中、第3子の長女として生まれした。


長男、次男、母、叔母……と続きます。


長男の

学年下に次男

次男の2学年下に母


母の下が生まれたのは5年後。



次男が一番こじらせています。

愛着形成の問題を還暦すぎた今も抱えています。



まぁいいや。



1番上のおじ


今日は、伯父の命日です。


私にとっては父のようで、兄のような存在。



父と同学年の伯父は、未婚でした。

私を娘のように可愛がり、色々なものを買ってくれました。


昔はプリングルス、高かったんですよね。

それをいつも買ってくれた。


小学生になった時、近所に家を建てて引っ越してきてくれた。


旅行に連れて行ってくれ


お小遣いをたくさんくれ


家にいたくない私に居場所をくれました。



病気になった時は、看護師になった私の言葉を守り禁煙をし


両親が離婚した時は……他の兄弟と縁が切れてもいいと母を守ってくれました


母に住む場所を与え、時分が居なくなった時にその家を守るよう伝え……居なくなりました。




原発不明の癌でした。


前駆症状は胸水。


心筋梗塞をしていたので、心不全由来かと思いましたが循環器の担当医は「違う」と。


なのに呼吸器科コンサルはその1週間後でした。

胸腔ドレーンを入れて胸水を抜き、毎日どのくらい抜いたかを伯父から連絡され。


「え?それを一気に?」と眉をひそめたくなる量を1日で抜くこともありました。

(案の定、その後体調崩した)


「腫瘍マーカー上がってない」


と水抜いて退院。



とても不信感が募りました。



その二ヶ月後、今度は腹水で入院。


この短期スパンで?これは癌でしょ。

胸水も肺頑張る、もしくは転移とかじゃないか。


そう姪たちは思いました。



ここで「姪たち」と言うには理由があります。


伯父が胸水で入院した2019年の姪は4人

(むしろ増えないけど)


私 看護師

妹 薬剤師


従妹1 看護学科中退(実習リタイア)

従妹2 看護学科3年生


全員、知識がある状態なのです。



複数を抜いて、その病院ではPETが出来ないため一旦退院し……たいのですが、なかなか複数減らず。

PET予定ですを目前に再入院。


その頃のおじは、体調の悪さを酒で誤魔化していました。



PETでもよく分からず、12月ラパロ下で生検をすることになりました。


そのとき執刀した医師に言われたのは「腹膜播種が酷い」「おそらく中皮腫」


肺の中皮腫はよく耳にしますよね?

腹膜中皮腫は希少すぎる……。


けれどわたしは心臓と脳神経しか経験がありませんので、突っ込んで医師に聞くことも出来ませんでした。


とりあえず組織を色々な検査機関に送り、結果は年明けと。


けれどやることは同じ。

化学療法。

そして腹膜全体に播種しているということは、余命はそんなに長くはないだろう。

セカンドオピニオンはどうするか?

中皮腫で有名な病院は?

本人はどう生きたい?


3月、私と妹は日程を合わせて帰省しました。







生検結果は

「原発不明癌」


私と妹は覚悟はしていましたが、家族を失うと言う事がより現実的になった日でした。


散歩嫌いな伯父の相棒を抱っこしながら、妹とひたすら歩きながら話をしました。


2020年、コロナ1年目の世の中です。

まだ行動制限のかからないギリギリの3月。



私の職場ではその時既に……感染病棟ではコロナ対応を開始していました。



できることを、できるだけ。

伯父に、酷な話をしました。

今後どうしたいのか。

未婚の伯父は、全てを自分で決めなければいけません。


点滴が入れられなくなったら、CV(中心静脈カテーテル)は入れるか。

CVポートは作るのか。

食べられなくなったら、胃管はどうするか。

胃ろうは作るのか。

延命はどうするか。

昇圧剤は?呼吸器装着は?

心臓マッサージは?


医師から話されるであろうことを、全て家族の前で確認しました。

そしてノートに日付と共に書き記しました。


意思疎通が出来なくなった時、家族か困らないように。

伯父の意思が尊重されるように。




相棒にこっそりチョコパイ食べさせる伯父。

ダメだよと言っても、可愛くてあげるのやめられない。

仕事から帰ると、半分の大きさにした骨っ子を1つずつ毎日上げていたそうです。



コロナ禍の闘病生活


元気なおじをみたのは、その日が最後でした。

コロナ禍1年目。

私は東京、妹は仙台。

私は電車移動なので帰ることは出来ませんでした。

だからそれぞれがそれぞれに「今すべきこと」をこなす日々です。


私はその年、大学4年生へ進級。



今日は何をしたよ、今の症状はどうだよ。


それがたまに伯父から届き

使用している抗がん剤の薬品名が妹から送られてくる


緊急で入院したよ、退院したよが母から届く。


みんな「約束の日」に向けて過ごしていました。


「還暦の誕生日までは生きる」


それが伯父の目標でした。


11月16日の誕生日。


その時に感染拡大が起こっていないように。

それを願いつつ。

伯父が自宅にいれることを願いつつ。


けれど11月に入る少し前、伯父は入院しました。


面会は出来ません。

県外……しかも都内から来る私は招かれざる客です。

同じ医療者で、感染対策はしっかりしていても、です。

なので病棟入口のガラス扉越しに会いました。

看護師に付き添われ歩いてくる、まるでおじいちゃんになってしまった伯父と。




ま、そんな順従な叔父では無いので、その後すぐにデイルームへ勝手に出てきました。

多分付き添い歩行言われてるんじゃないかなー?と思いましたけどね。


デイルームで

「来てくれてありがとう。

また来てくれな」と1万円渡されました。

受け取れないよと伝えても、「これは交通費だ!」と。


自分事で呼び戻す時はいつもこうです。


「じゃあ、次帰ってきた時は一緒にいちごのケーキ食べようね。」



と約束しました。

「還暦の誕生日にみんなでいちごのケーキを食べる」

それが、伯父の目標でした。



その日の夕方、叔母がもう一度面会に行った時です。

まるで最後の晩餐デモするかのように、病院のコンビニで唐揚げを購入し食べたそうです。

でも油物でお腹が痛くなり、その後嘔吐。

そこから食べ物が食べられなくなりました。

そして直ぐに緩和病棟へ行きました。


医師からは「痛みのコントロールをして、そしたらまた治療をしましょう」と言われたそうです。


伯父はそこに希望を持ち、緩和病棟へ行くことを了承しました。



伯父だけは希望を持っていた。


12月10日


緩和の医師からICがありました。

消化器の担当医からは家族へ一度もありませんでした。

だから知らなかった。

伯父の生命予後、とっくに過ぎてることに。


緩和の病棟では、私の面会も許されました。

師長自ら「看護師が感染対策出来てなかったら、他の人なんて面会できない!だから面会してください!」って通してくれた。

有難かったです。

その時の伯父は、もう自力で動けない。

モヒ投与されて虚ろ。


足は浮腫んでパンパンで……

「足首動かさないと、血液戻らないからもっと浮腫むよ。」と私が言うと、気持ちばかりの屈曲運動。



医師からは「もし本人が望むなら、一時帰宅しても良い。こんなに医療者が揃っていて、逆に帰れないってことはない。けれど年を越すのは難しい」


伯父は自分の母親にその姿を見せたくないと、外出は希望しませんでした。



「私ね20日に宝塚観るんだよ。1年振りに観るの。2列目当たったんだよ。だからその時はやだからね?お正月帰ってくるから、その時また会おうね」


とICだけ聞いてトンボ帰り。



そして2020年12月19日

その日の朝、なんとなく私は荷造りを始めました。

翌日に宝塚を見ると言うのに。

ようやく公演再開して、休演のもならずその日を迎えることが出来そうなのに。


ボストンバックに荷物を詰め始めた時、母から電話がありました。


「今、脂肪の確認をしました。」と。


息を引き取ってから、医師が確認に来るまで1時間。

公立病院では仕方がないのかもしれない。

逝ったな。

そう思ってから伯父と長妹と3人で過ごす時間は長かったそうです。


「今から、帰ります。」


果たせなかった、約束



葬儀の打ち合わせ中、母の部屋に避難する私とわんこ。


いちごのケーキ、一緒に食べられなかった。

一緒にいつかお酒を飲みに行こう。


果たせなかった。


品川のエキュートで、家族の分のいちごケーキを購入し帰宅しました。

帰宅し、リビングに安置された伯父の前に作られた焼香代にケーキを備え。


その夜の寝ずの番は私がしました。

夜勤で夜起きているのは慣れていること。

ご遺体といても怖を感じないこと。


アマプラで動画を見ながら。

本を読みながら。

時々、伯父と対話しながら。



翌日は妹が。

そして通夜、告別式。

家族だけで執り行いました。


恵まれていたのは、お坊さんや葬儀社の方が遠方にしか居ない家族を受け入れてくれたこと。


それは本当に感謝です。

ありがとうございました。





伯父が居なくなったあと。

伯父のいつもいた場所に、わんこが座ってました。

まるで家族を見守るかのように。


一通り終え帰宅する23日は母の誕生日でした。

またいちごのケーキを買ってきて、伯父にもお供えしみんなで食べてから東京へ戻りました。


その時から、私の帰宅時はいつも「いちごのケーキ」がお土産です。



おじちゃん、元気ですか?


と、問うてももう居ません。

夢にも出てきてくれない。


おーい、げんきかー?




49日の日、夢枕に立った伯父。

「ビール飲めて良かったじゃん!うまい?」

「んめぇぞ!こっちでの修行は終わったから、しばらくやすんだらら次はつなんとこ行くからな」


って。

その時私が見た景色は、あったことの無い祖父とおもしき人が、伯父と一緒にお酒飲んでいた姿です。

(祖父は伯父が成人する頃に亡くなってます)


そこから出てきてくれないんだよね。


伯父ちゃーん待ってるからねー。




番外編



新盆で帰った時、伯父の相棒は病気でした。

ケトアシドーシス。

糖尿病由来です。

まぁたくさん美味しいもの食べてましたからね!


インスリン打ち始めましたが、気休め程度。

盆前に退院をしたわんこ。

新盆でみんなが帰省したのをニコニコと見届け、そしてまた入院。


その後8月19日、伯父の月命日になった瞬間に旅立ちました。

あぁ、連れていったんだなぁ。

相棒、連れていったんだなぁ。



そう思いました。