ジョハリの窓



知ってますか?

心理学で時々出てくる考え方です。


ジョハリの窓には4つの窓があります。


1解放の窓

自分も他人も知っている「私」


2秘密の窓

自分は知っている

他人は知らない「私」


3盲点の窓

自分は知らない

他人は知っている「私」


4未知の窓

自分も、他人も知らない「私」



この4つの窓の中で「開放の窓」が多いほど自分と他人の不一致は少なくなります。

過ごしやすくなるんですよね。


けれどなかなか広げられないのも事実。

私も難しいなぁと思います。


でも昔よりは広がってます!



秘密の窓


これは、歌舞伎座ビルにいた猫のなんかです🤣



本当はふざけた性格です。

テキトーでどうでも良い。

興味のないことはやってられない。

とてもだらしがなくて

食事はポテトチップスだけでいい。

お腹壊すのにコーヒー牛乳大好き。


でも、自己開示ができなかったんです。

それは私の中に「性的虐待」というものがベースにあり「私は汚い」という歪んだ認知があったからです。


だから少しでも良く見せようと必死でした。


真面目で

几帳面で

満遍なくことを進める優等生

お菓子は我慢して

コーヒー牛乳は絶対飲まない。



あ、食べ物に関しては関係ないかも笑


ん?無くはないかな。


でもね、秘密の窓が広いってとても苦しいんです。


開放の窓が広がったきっかけ


私は何故開放の窓が広がったのか?

それはコロナ病棟に異動したからだと思います。

異動の2年前、大学へ編入しました。


卒論は「隣にいるサバイバー」ってタイトルで性的虐待についてです。

教員にはいい顔はされませんでした。

なぜなら、自分を論題にするのは危険だから。


事実、4年生の時は相当メンタル不安定でした。

卒論と同時進行で、父親的存在の伯父が終末期。

コロナ禍1年目で頻繁に帰省もできない。

そんな過酷な1年だったんです。



ちょっと話逸れますが、大学在学中の、2年間を書かせてください!



私の伯父さん


2019年、私は大学3年生に編入しました。

仕事のあとに大学のeラーニング。

日々やることに追われていました。


そんな6月、伯父が謎の胸水で入院しました。

元々心臓血管の治療をしていたため、心不全かな?と思っていましたが違ったようです。

その時点で「がん性胸水でも無い」と説明は受けましたが、じゃあ急に水がたまる要素って他に何かな?

と伯父の担当医に不信を抱く私。


その後、8月に腹水で入院。

いよいよこれは癌だろう。

そう感じていました。


でもラボデータとしてマーカーが上がらない。

PET CT をしてもよく分からない。


謎の胸水、謎の腹水。


12月に腹膜播種に関する生検はしていたんです。

「中皮腫かもしれない」とその時に言われましたが……


中皮腫?!


昔の湯たんぽには確かに石綿を使ったものがあったと母は言っていました。

ただしっくり来ない私。


地方の総合病院です。

お作法があるのでしょう。

とにかくスピードが遅い……。

大学病院勤務をしていて、大学もなかなかにスピード遅いなぁ……

と思うことがある反面、看護師のちょっとした気づきから検査に発展して発見される事も多々あります。

けれど地方の総合病院、看護師は公務員のお役所仕事。


あぁ……ちゃんと看て貰えていないかもしれない。

そう感じてしまったんです。


入院中、伯父からは毎日LINEが来ていました。

今日は胸水をどのくらい抜いた。

(1日に抜いて良い量以上を抜いて、小声で「抜きすぎた」と言ってるのを聞いたこともあったようで、不安が募ったらしいです。)


痛み止めが欲しくても伝えて良いのか分からない。

飲んでいる薬の内容、検査データ、点滴の内容。

行った検査。

全部、なんでやってるのか分からないと言われました。

だから予測の範囲で、その検査は何を確認するためのものかを私が伝えていました。


全部、全部説明がされないままに進んでいく。

それなのに、看護師が病室に来るのは血圧を測る時だけ。

体を拭くタオルを、要るかも聞かれない。


その時の伯父は還暦前でしたが、とても遠慮深い性格なので「大丈夫です」しかいえなかったんです。



そんな1年を過ごし、ようやく診断名がおりた2月。

2020年の事でした。

コロナが流行り始めた歳。

未知の感染症の世界に、癌の終末期と告げられた伯父。


3月、私と妹は休みを合わせて帰省をしました。

伯父の残り時間はおそらく半年もない。

誕生日は、11月。

どうにか還暦までは生きていて欲しい。

でもそれよりも彼のエンディングノートを作らないといけない。

告知を受けたばかりの伯父にはとても酷な時間だったと思います。

ですが、家族を困らせないように必要なことでもありました。

なので、伯父にひとつずつ確認をしました。


できる治療は抗がん剤のみ。

原発が分からないし、腹膜全体に播種をしているから取り除くことも出来ない。


その上で、どう生きたいか。


胃管は?

中心動脈カテーテルは?

ポートは作る?

麻薬は?

昇圧剤、酸素、心臓マッサージ……

最後はどこで迎える?


そこまで確認し伯父と別れました。

「もう、次は還暦の誕生日まで帰ってこないよ。」

「おう。それまで生きてっから!」



実家まで電車で片道3時間弱

私の職場は病院

帰るにも帰れる状況ではありません。




2020年、私は4年生になりました。


伯父は抗がん剤の治療を開始しましたが、8月頃からは腹水貯留のスピードが早く。

かつ、ラボデータも芳しくない為抗がん剤治療が出来なくなりました。

食事ができず、入院し点滴管理。

それから無くなるまで4ヶ月間は病院で過ごしました。


何とか、誕生日は迎えることが出来ました。

けれど化学療法の末、60歳とは思えない風貌です。

病棟の扉越しに、看護師に付き添い歩行されて連れられてきた伯父の姿を見るだけの面会。


けれど、その後こっそりと病棟デイルームの個室に伯父はやって来ました。

「来てくれてどうもない」

と、交通費だーって1万円くれたんですよね。

それが、伯父と直接話した最後だったと思います。


12月、緩和病棟に移りました。

急な事で、担当医からはなんの説明もありませんでした。

癌の末期で、キーパーソンは私の母で。

なのに家族にはなんのICもないんです。

生命予後がどのくらいかも分からない。

困惑する家族に、師長さんがICの場を取り持ってくれました。

その場にわたしが入ることも同意を頂けたのは感謝です。


12月10日、ICをしてくれたのは緩和の先生でした。

もし本人が外泊を望むなら、医療者が揃っているからそれは許可できる。

けれど、帰宅途中に亡くなる可能性も高い。

あぁ、もうとっくに生命余命はすぎてたんだな……。


緩和病棟は、30分だけ面会も許可されていました。

県外からの面会は原則お断りだそうですが、伯父の姪にあたる私、妹は医療者。従妹も看護学生だったので感染予防は非医療者より確実との配慮でした。


その時に会った伯父は、モルヒネ投与を開始されてました。

浮腫が強く動くこともままならない。

意識は朦朧としていて、覚醒時間は無い。

なるべく匂いの少ない保湿剤を選び持参した私は、伯父の足をマッサージしてきました。

「くさい」と一言言われましたが、わたしが「血栓予防に足は動かすんだよ」と伝えると、足首をゆっくり動かし反応してくれました。


いつだって、私の言うことはちゃんと聞いてくれた伯父。

脳梗塞をした時も、禁煙を守ってくれました。

未婚の伯父は、姪をすごく可愛がってくれました。

25の時に私が生まれ、たくさん旅行にも連れて行ってくれました。

擬似子育てをしてたんだと思います。


「おじちゃん、20日に宝塚観るんだ。1列目の席だからさ、その日はやめて欲しいんだ。正月にまた戻ってくるからさ、そしたらちょっとだけでもいいから家に帰ってみようよ。妹も居るからさ。」


そう伝え帰宅をしました。

タカラヅカの予定があったのは本当。


12月19日

何となく、帰る準備をしないといけない。

朝起きた時に荷造りを始めました。

荷造りを終えた時、母から伯父が亡くなった旨を伝えられました。



大学4年生


伯父のラスト1年の人生の時、私は大学4年生でした。

コロナ禍でしたので、zoomで面談しながら卒論を進めていました。


4年生と言えども、履修する科目はたくさんありました。

看護学校の単位を使って編入していますが、3年生の時は大学の必修単位の授業も受ける必要があります。

他に看護師の学位試験のために必要な履修科目もありました。

教員課程は取れませんでしたが、教育系単位を取り卒業することで、一応は専門学校で教鞭も取れるためそちらの単位も必要でした。

だから、履修登録できる最大の授業をずっととっていたんです。




幸か不幸か、私は以前看護研究をしていたので研究の進め方は知っています。

そのため研究計画書の最初の面談で直しもなくGoを頂きました。

確か面談は合計3回。

夏頃に途中経過と方向確認、11月頃に草稿の確認だったと思います。


研究計画の段階で直しが無かった私は、余裕を持って進めることが出来ました。

教員からも1番スピードが早いと言われていました。


けれど、前途の通り伯父のことがあったのでいつでも動ける状態にありたかった。

そしてテーマとして選んだ「性的虐待」はダラダラとやり続ける精神力がなかった。


なので9月には草稿が終わっていたんです。

夏休みにとった1週間……

ひたすら性的虐待についての過去論文や文献を読みました。

吐きながら読みました。

その後1ヶ月抜け殻になり……

草稿は3日で書き上げたんです。

書いてから見直す元気が無かった。

それだけ精神的に抉られたので。


伯父の誕生日までには、終わらせたい。

それだけで進めました。


草稿面談の時も、指摘されたのは誤字脱字の訂正だけでした。

この時ばかりは、書くことが好きな自分に感謝です。

商業高校出身ゆえに、ワードがそれなりに使えることも。

ブラインドタッチどころか、資料見ながらタイピングするスキルにも感謝です。


とにかく、手直しが少なくて救われました。

何度も書き直す精神力は、私なは備わったいなかったので……。



そんな、4年生でした。


仕事ではコロナとかいう未知の感染に気をつけ

学業をこなし

家族の問題には逐一伯父からのLINEや母の相談に答える。



忙しかったな……。

もうあんな忙しい1年は過ごす自信はないです。



開放の窓が開いた話


で。

ジョハリの窓に戻ります。


わたしが開放の窓が開いたのは2021年以降と最近です。

コロナの病棟に、異動したんです。

そこで色々なことが起こりましたが……



まずは、性的虐待について学んだことが大きかったと思います。

それだって苦しさからは抜け出せていなかった。


けれど「私は汚くない」と思えたんです。

そして、同時に父親も、母親も苦しかったんだと。


だからって許せるものではありませんけれどね。


性的虐待を学んだからと言って、そこの手放しはまだまだ出来ていません。

SEANを目指し講習を受け始めましたが、それがとても苦しかった。

苦しくて苦しくて、5万円払ったけれど講義は毎回聞くことが出来ませんでした。

結局講義はヒトゴトなんですもん。

本来2年間受けなければいけない研修。

毎年5万円。


私は5万円を無駄にしました。

翌年受けるってことが体が拒否したんです。


今は、それで良かったと思います。

その代わりカウンセラーの勉強を始め、心について学ぶことをしたんですから。



そして2021年、ツインレイに出会ったのもきっかけのひとつです。

「私は汚くない」と頭では理解しても、心はそうじゃないんです。

けれどツインの彼は「どんな過去があっても、変わらないから」とわたしが私でいることをありのままに、認めてくれたんです。


その瞬間に凍った心が溶けた気がしました。


2022年1月、サイレント期間になりました。

適応障害になり、精神科へ通院をしました。

スピリチュアルと出会い、ひたすらに「自己愛」探求に入ります。

その結果がカウンセラーの勉強にたどり着くんですけれど……。


その適応障害が大きかったと思います。

精神科で言われることが尽く人格否定でした。

私はそう感じたんです。

これはおかしいぞって自分で心の勉強に至ったのですが……

その過程で自分を愛すること、大切にすることをしてきました。

サイレントの彼の言葉を握りしめて、自分は自分でいいんだーって。


そうしていくうちにね、SNSでは言えてたんです。

「私が受けた虐待も、私の個性」って。

それをリアルでも言えるようになったんです。

だから今の病棟の人で、わたしが私を開示しても大丈夫と思った相手には伝えて居ます。

私が虐待のサバイバーであることを。

父親が犯罪者で、だから苗字が変わったことも。

心が苦しい時は、ちゃんと、苦しいって言っていいことも学びました。


秘密の窓に閉じ込めてた私を少しずつ開放していきました。



だからね、今は疲れたら「疲れたー」っと叫ぶし

イエスマンやめて嫌なことは嫌って伝えるようになったし。

病棟でピクミン歌いながら記録は書くし

被り物してステーションにいることもある。

ひたすらチョコだけを、もぐもぐしてるのを咎められても気にしないし

お腹壊すの分かってても飲みたいって思った時にコーヒー牛乳は飲んじゃう。


自分の本当はおちゃらけた部分を、だけど隠してきた部分をお披露目してます。

そうすると周りも一緒に遊んでくれて、あぁ、生きるのが楽になったな。

そう思えるんです。


まだまだ、これから。

開放の窓は広がりました。

けれど「苦しいな」と思うことはまだ沢山あります。


コロナの病棟にいること

学生さんの指導を出来ないこと

ペットを飼えない今のおうち


そういう苦しさって、握ってなくていいと思うんです。

開放の窓を開けたら、今度は仕事を辞める勇気が出ました。

自分は自分のために生きていい。

そうしたらね……

コロナはみたくない。

学生の指導したい。

犬飼いたい。

妹みたいに、住みたいところに私も住む


今、東京にいるのはね……

実家から親がギリ来れる場所って言う妥協点。

でも結局わたしがコロナにかかって苦しい思いをしてる時、母は来てくれなかった。

「○○駅まで行けても、その先無理だよ」

「おばあさんいるから、無理だよ」

全部無理って。

でもね。

その駅まで来れたら、次は駅員さんにどの電車に乗れば良いか聞けばいい。

住所知ってるのだから、最寄り駅からはタクシー使えばいい。

おばあさんは、叔母にお願いしてくればいい。

死にゆく世代の祖母が、まだ生きなければいけない娘よりも大切なのかって、ガッカリしたんです。

そして、結局親の妥協した場所にいても駆けつけては貰えない。


そう理解したら、親への期待も無くなったんです。

コロナの時、食べるものがなくても生きることは出来た。

(ダルすぎて作れなかったのと、食べる気力がなかったのです。1時間かけて桃缶をプロセッサーでペーストにして、1時間かけて食べたら疲れました!)


親は連絡をくれなくても

職場の同僚や妹が生存確認をしていてくれた。


なんだ。

わたしが親に期待しすぎてたんだ。

わたしがして貰ってないなら、私も親が困った時に助ける必要はない。

そう思えたんです。


だから明日はもう少し、生きやすくなる。




タイトルのこと


何故今日はこんな記事だったのか。

それは歯科で言われた一言です。


「つなさんの持ち物はいつも可愛いから、こっそり見ちゃってます」

と衛生士さんに言われました。


人からはそう見えてるのかと思ったんです



私はセンスがありません。

だからね、無謀なことはしないんです。


バッグは全部同じブランドの色違い。


マスクは柄物を使いますが、服が無地だから。

そして白や青、ピンクと言った色は病院にいる気分になるので嫌なんです。


ハンカチは白に自分のイニシャルが入ったもの。


私からの見え方と、他の人の見え方は当たり前だけれど違う。

それが自分の中では適当だとしても、評価してもらえることって案外あるんだなーと思ったのでした。



これを書くまでの前置きが長すぎましたね!

今日もありがとうございました!